#83

鏡の前で着替えること、5回。
「決まらない‥」


なまえは頭を抱えた。
可愛い系、清楚系、クール、セクシー、スポーティー‥わけわからーん!

チラリと見たテレビは、「ホワイトデーに行きたい!隠れ家レストラン」などという特集で盛り上がっている。

「‥‥‥‥‥」

"食べたいものは、あるか!"
‥卒業式の夜。打ち上げから帰って風呂の準備をしていたら、煉獄から着信があった。

これでクラスメート達ともお別れなのだ、と寂しい気持ちであったところに、想い人からの電話。嬉しくてニコニコしていたら、電話越しなのに「嬉しそうだな!」と言われ、顔から火が出た。

当日は平日である為、仕事終わりに合流し、夕食を、との事であった。そこで貰った冒頭の質問に、なまえが元気よく
"もんじゃ焼きが、食べてみたいです!"
などと言ったので、電話の向こうで爆笑された。


「よくよく考えたら、ホワイトデーのお誘いなのに‥食いしん坊出ちゃった‥」
お腹の緩そうなパンツを手にしながら、ため息をつく。そうか、普通は‥あのテレビのように、お洒落なイタリアンなどを選ぶのか。何本当に食べたいものリクエストしてんだ私。

匂いもつくし、初めてのお出かけなのに‥
「まぁいいか、今回は食事を楽しもう!」

ニットワンピースを手に取る。蜜璃が見立ててくれたものだ。
着てみると、体のラインはくっきり出るが‥締め付けが無いので食べても苦しくならないし、タートルネック、膝下丈と露出も無くて上品だ。

髪は巻いて低い位置でまとめ、軽く化粧をする。上品な耳飾りを付け、コートを羽織ると‥うん、20代には見えるな。





「はい!」
17:30。約束の時間ぴったりに電話が鳴る。

「煉獄だ!降りてこれるか?」
「ふぁい!」

緊張して変な声が出るが、気にせず玄関へ急ぐ。この時間、教師達はまだ忙しく働いている筈だ。なまえとの約束の為に、仕事を置いてこさせてしまったかと思うと‥一秒たりとも、彼を待たせたくなかった。


エントランスのガラス扉が開く。外はもう日が落ちていた。もう3月だが、今日は真冬のように寒い。顔に当たる空気がキンと冷たく、なまえは思わず身震いした。


「!」
車の前に、煉獄の姿を見つける。
(あああ、煉獄先生が私を迎えに‥!!)

マンションの明かりと車のヘッドライトに照らされ、暗闇に浮かぶ焔色が美しく光を反射する。以前まったく同じ場所に不死川が車を停めていた事があったが‥好きな人、というだけで、今から海外旅行にでも行くのか‥というほどの、えもいわれぬ高揚に包まれた。



「俺が帰ると言ったら、宇髄が腰を抜かした!」
「何故ですか!」

ナビの地図を広域にして方面を確認した後、煉獄が車を発信させる。
緊張して固く結んだ両手から、ネイルサロンで手入れをした淡いピンクの爪がキラリと光った。

「宇髄は勘がいいからな!」
‥そうか、ホワイトデーに煉獄先生がいつもより早く帰宅すると言ったら、確かにピンときそう‥。腰抜かさなくても!


「煉獄先生、宇髄先生と仲良しですもんね」
「そうだろうか!確かに、よく飲みに行く」

「先生、この前も‥」
「みょうじ、」

赤信号で減速した車は、ゆっくりと白線前に止まる。落ち着いた声が自身のそれと重なり、なまえは驚いて運転席を見た。


「"先生"は止めにしないか」
予想外の言葉に、なまえは目を丸くする。

「‥もう先生と生徒じゃないんだ」
暗闇に光る穏やかな赤が、美しく細められ‥車が再び動き出す。


煉獄の言葉で、ぐにゃりと思考回路が歪んだ。頭では、分かっていた。隣にいる煉獄が、教師としての責任感などでこうして自分を連れ出しているのでは‥無いということは。
だがどこかで、煉獄の自分への特別な対応は、件のストーカーや盗撮に端を発するもので、彼の中の罪悪感や後悔が、彼にそう動くよう働きかけているものだと‥悲観的観測が、心に深く根を突き刺していた。

あの煉獄が、自分などに好意を持つはずが無いと、教師としての優しさなのだと‥自分を牽制していたのだ。それほどに彼はいまだ遠く、この世界でただ一人、なまえの瞳に映る憧憬であった。


"もう先生と生徒じゃない"
それを今、煉獄が、終わらせた。ぐらぐらと不安定に燻るなまえを縛り付ける鎖であり、彼女が拠り所としてきた与えられた関係を、過去にしたのだ。
生徒という足場を失ったなまえは、裸足で荒野に放り出されたかの如く、呆然とした。

煉獄の言葉は、核心を突いた様で、いまだ曖昧であった。だが煉獄が一人の男として‥なまえを側に置いてくれた、その事実は、心に刺さった深い根を焼き払った‥気がした。


「煉獄、さん‥‥」
震える唇が、何とか音を出す。

「うわっ」
瞬間、直線の道なのに、一瞬右に車体がぶれた。

「いきなり呼ぶな!ぶつける!」
「先生が仰ったのに!?」

何故か動揺した煉獄が、自身の左胸を押さえていた。怖かったのはこっちですよぅ!





川沿いをしばらく走った車は、コインパーキングに入り、停車した。
「父が贔屓にしている店だ。騒々しいが、うまいぞ!」
元気に言いながら運転席から降りる背中を見つめ、シートベルトを外す。ドアに手を掛けると、いつものように煉獄が開けてくれた。

「!」
‥が。差し出された右手に、空腹が吹き飛ぶほどに緊張した。これは、初めてだ。‥いつもなら、扉を開けて、なまえが降りるのを待っているのに‥。

恐る恐る手を重ね、体を傾けて、地面に下ろした脚に体重をかける。上方に引かれる一瞬が、やけにゆっくりと感じた。

「行こうか、みょうじ」
車のキーが右ポケットに入っていて良かった。すぐに離された手は熱く、手汗が出てきた気がする。慣れなければ前へ進めないのに、煉獄に少しでも触れられると、体が燃えるように熱くなるのだ。


「いらっしゃいませー!」
賑やかな通り、その両側にもんじゃ焼きの店が連なっている。その中の一つ、ガラスの引戸を開けると‥ガヤガヤと賑わう店内から、ソースの焦げる良い匂いが漂ってきた。

「あ、ご予約のお客様ですね、こちらへどうぞ!」
満席の店内は、まるで昭和を思わせるレトロな内観である。中央の座敷は掘りごたつになっており、その両側はテーブル席だ。

予約をしてくれていたとは、有難い!‥それにしても、何故名乗っていないのに分かったのだろう?

「いつも有り難うございます」
‥あぁ、お父様の行きつけだった。
一人納得しながら案内された席は、店内奥のテーブル席だった。入り口側の祭りのような喧騒も雰囲気があって楽しそうだが、こちらの方が、声を張らずに会話ができそうで嬉しい。

「初めてで感動してます!お腹すきました!」
このワイワイした雰囲気最高ですね、などとご機嫌にコートを脱ぐ。瞬間、煉獄の顔が一瞬ギクリと強ばった‥気がしたが。気のせいだろうか。

「コートは、ここに入れるんだ!」
言うなり彼は、椅子の座面を開けた。‥そこ開くの!?
なまえも真似して開けてみると、空洞になっている。これで煙から守るのか!シンプルに良い考え!





メニューを真剣に見つめること1分。あまりにガチすぎて、正面の煉獄がちょっと笑っているのが恥ずかしい。

「明太もちチーズにします!」
「他には?」
「え?」
もんじゃの分量が分からない。一人一個じゃないの?
「‥先生のおすすめでお願いします!」

悩むだけで頭がパンクしそうだった。だってこれ、字面だけで魅力が凄いんだもの!

煉獄は「うーん」としばらくメニューを見つめた後、呼び出しボタンを軽く押した。




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