30.一進一退実際は
「牛島さん」
「!」
駆け寄って声を掛けると、牛島さんは一瞬ぎょっとしたような顔をしてみせたのだった。そしてそのまま、4歩程ゆっくりと後退りをしていった。
「?」
「…なんだ」
私と牛島さんの間には、今2m以上の距離がある。なんだかこのまま話を続けるのもやり辛くて1歩進んでみた。するとやっぱり牛島さんはその分1歩後退りをしたのだった。
この微妙な距離感は、彼にとっては譲れないものらしい。
「明日からの大会スケジュールの、再確認を…」
「…投げてくれ」
「え」
A4の用紙をアピールすると、牛島さんからそんな指示を賜ったのだった。どういうことだろう。
怪訝に思いながらも、その用紙を飛ばし易いように四つ折にして、手裏剣の要領で投げてみた。
少し逸れてしまったけれども、牛島さんは悠々とそれをキャッチしてくれたのだった。さすがの反射神経だ。
「…今の俺は、お前に無意識に何をするか分からない。だからお前は、俺にこれ以上近付かないほうがいい」
牛島さんは用紙を一瞥した後に、顔を上げてそんなことを言ってきたのだった。それ、つい数日前も言われたなぁ。
牛島さんの額には何故か若干汗が滲んでいた。なんだか退っ引きならない事情がある、ということはなんとなく理解ができた。それにしても、何をするか分からない、ってどういうことだろう。やっぱり“反射的にぶん殴りたくなる”というところあたりだろうか。もしも牛島さんに殴られたら、私はどうなるんだろうか。少なくとも木っ端みじんにはなるだろう。
それは私も困るし、牛島さんだってお立場的にあってはいけないことだろう。暴力沙汰で大会出場停止なんかになったらいよいよ洒落にならない。更に世界ユースの件が絡んできたりしたら、もう本当に取り返しのつかないことになる。国レベルの問題にすらなってくるのではないか。
「わ、分かりました…」
私も2歩ほど後退り、そう返事をした。牛島さんは相変わらず険しい顔をしながら深く頷いたのだった。
…よくよく考えれば、私にとってこれもなかなかショックを受けるべき状況だと思う。それでもなんだか、そんな次元の話ではないように思えた。それだけ牛島さんの表情は今、真剣なのだ。それに、どこか昨日までの変な疎外感が一切無くなったような感じがした。
牛島さんが、私に構ってくれている。ちゃんと目を見て会話をしてくれている。
その事実がどういうわけか、こんな謎の距離感に対するショック分を補って余りあるくらいに、とても嬉しかったりするのだ。
少し前まで当たり前だったこんなことに、そんな感情を抱くなんて。なんだか自分がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「…っ、笑うな」
「?」
すると牛島さんは、手の甲で自分の口元を抑えながら少し目を逸らしたのだった。心無しか、頬のてっぺんが少し紅い。
そんな牛島さんの姿に、どういうわけか心臓がぐっと掴まれたような感覚に陥ったのだった。
―――――――
「…よし」
物品の確認を終え、改めて1年生の子たちに明日の運搬の手はずを伝え終える。
インターハイ予選。1年生にとっては高校生初の公式試合。誰も彼も妙に顔が強張っていることが、とても印象的だった。緊張しているらしい。
2年生以上のレギュラー勢は、恐ろしいくらいに“いつも通り”だったりするから、それがかえって彼らの緊張感を掻き立てているのだろう。
「ついに…っ!ついに公式戦ですよぉぉお!!」
そんな中で、異彩を放っていたのは我らが次期エースだった。なんというか、オーラが燃えていた。それはもうメラメラと。さすがすぎる。
きっと五色くんはその実力的に、中学時代も大活躍した選手だったのだろう。だからというかなんなのか、少なくとも物怖じする様子は、これっぽっちも無かったのだった。
牛島さんも牛島さんだけれども、五色くんも五色くんでなかなかの大物だと思う。高校でのデビュー戦を前にして、この状態。本当に、さすがとしか言いようがない。
「工は本当に格好いいねぇ〜」
「天童さん、お疲れ様です」
「ん?お疲れ〜」
天童さんはいつも通りにニヤニヤしていた。この人も、さすがだ。
それにしても、ここ数日はそのニヤニヤが心無しか度を増しているような気がする。大会が、よほど楽しみなのだろうか。
「さくらちゃん、」
「はい」
「予選終わったら、思う存分問い質してあげるからねん♪」
「え。何をですか」
天童さんが私の顔を覗き込みながら言ってきたそんな言葉に、皆目心当たりが無かった。あ、もしかして“構って下さい発言”のことだろうか。
さすがにそれは正直そっとしていてほしい。なんだか恥ずかしさで胃が少し痛んだ。
「若利くんも、意外とダイタンだよね〜」
そんな心中を察されてしまったのか、天童さんは頬を赤らめて一層ニヤニヤしながら私の顔を覗き込んできたのだった。本当にいい性格をしていると思う。味方でよかった。
あ、あれ、
「?牛島さん、ですか…?」
なんだか若干、話が噛み合っていないように感じた。牛島さんが大胆、とは。もちろん消極的なほうではない人だとは思うけれども。
きょとんとしながら天童さんを見上げていると、天童さんの表情が一瞬固まったのだった。
「…え、アレ?」
「?」
「いやあのさ、ちゅー事件…」
「…“中耳炎”?」
首を傾げていると、天童さんの口角はみるみる下がっていったのだった。
「…ま、マジかよん…」
「?」
その後、天童さんは何故か川西くんの名前を叫びながら血相を変えて走って行ったのだった。
な、なんなんだろう。一体。
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