32.赤熊百合に乾杯を【end】


「…最上」

「……はい」


私と牛島さんは、向かい合う形で超至近距離に立っていた。もしも許されることならすぐにでも距離を取りたいのだけれど、両手首を掴まれてしまっているだけにそれはかなわない。それでなくとも牛島さんの鋭い視線は真っ直ぐと私の目に向かって落とされているわけで、私には到底それから視線を逸らすことなんてできるわけが無かった。ライオンに睨まれた小動物の気持ちが、否応無しに理解できた。


「俺は今、お前に何をしてしまうか分からない」

「…えっ」

「だからもしも嫌なら今のうちに言ってくれ」

「あの、」


背中を冷や汗が伝った。牛島さんの言っていることの意味は相変わらず一向に分からないけれども、なんらかの形で今私の身に危険が及んでいて、尚且つそれに対して牛島さんから律儀にも警告を賜った、ということだけは理解ができた。


「…嫌、です…」


となると、私の回答はただ一つ。これがともすれば失礼に値するようなものだということは、さすがの私にも理解ができる。しかしてまずは、この状況を理解するためのインターバルがとにかくほしい。


「…そうか」


すると牛島さんはいつも通りの声色でそう呟き、ようやく私の手首を解放してくれたのだった。
それを合図とするように、全身の力が一気に抜けた。私は情けなくも、牛島さんの前で床にへなへなと座り込んでしまったのだった。


「……牛島さん」

「なんだ」

「…つまり、どういうことですか…?」


この状況でのこの質問は、些か間の抜けたものだとも思う。しかして相変わらず、そもそもこの状況と牛島さんの意図が一切理解できないのだ。


「…俺は、お前が好きだ」


すると牛島さんはしゃがみ込み、また私の目を真っ直ぐと見据えながらそんなことを呟いたのだった。


「う、牛島さん…」


声が、かすれた。


「そ、それは、マネージャーとしての私が、という意味ですか?それとも恋、とか、愛とか、そういう意味、ですか…?」


その場のノリというものは本当に恐ろしい。私はついに、ずっとずっと気になっては自己完結させてしまっていた疑問を、本人にぶつけてしまったのだ。
口に出した後に、なんだか物凄い後悔の念に駆られた。私は何を聞いているのだろうか。恥ずかしいし、恐れ多いしで、一気に顔に熱が集まった。
牛島さんは一瞬きょとんとした顔をした後に、少し視線を逸らして小首を傾げたのだった。


「…あ、あの牛島さん、すみませ「全部だ」


私の謝罪を遮る形で牛島さんが呟いた言葉は、俄かに信じがたいものだった。


「…え」

「全部だった」


そして律儀にも、牛島さんは再び同じ言葉を繰り返したのだった。
今更だけれども、私はどうも理解し難い状況に直面すると、まずは否定から入り自分の中で納得のいく理屈に無理矢理結びつけようとする癖があるらしい。
しかして今回の場合、そんな余地が今のところ一切見つけられない。
牛島さんが、私を好き。
マネージャーとして、だけじゃなくて、恋愛感情としても。


「…う、嘘だぁ…」


完全に、思考回路がショートした。どういうわけか涙がこぼれた。私はキャパシティを超えると泣くような、至極面倒な人間だったらしい。
しかしそんなパニック状態に陥ったって、なんらおかしくない状況だと思う。よりにもよってあの牛島さんが、私のことを好きだなんて。私の理解の範疇を容易に越えている事態だ。


「嘘じゃない」


牛島さんは私の頬を指で拭うと、また淡々とした声でそんなことを呟いたのだった。
そしてその指は私の顎へと移り、再び牛島さんの顔が至極至近距離へと迫ってきたのだった。


「!!!??」

「……?」


私は咄嗟に、牛島さんの口元に手を被せた。心臓はばくばくと鳴っている。
牛島さんは少し、目を細めていた。


「…なんだ」


私の手が牛島さんの口元を覆っているため、くぐもった声で牛島さんはそう呟いた。


「すみません…、あの、心の、準備が…」

「?もう次で3度目だろう」

「さ、さん…?」


若干私の記憶内のそれと回数が異なってくるのだけれども、今はそんなことを気にしていられる余裕も無い。
どうしよう。というかそもそも、牛島さんに好きだと言われたことにより、我々の関係は今どんなものになったのだろう。いやその前に、なんだか先刻プロポーズ地味たものも受けなかっただろうか。
いやまず張本人が理解できていないって、どういうことなんだろうか。


「…牛島さん、」

「なんだ」

「…あの、私たち、今、恋人という奴に…なったんでしょうか?」


もうこの際恐れ多いとか言っている場合じゃない。ここを今確認しておかないことには、またしばらく悶々とした生活を送ることが目に見えている。
そんなことを聞いてみると、牛島さんはぱちぱちと目を瞬かせたのだった。


「…そうか」

「えっ」


そうか、って、何?


「そういう段階もあるんだな」

「え」

「結婚ばかりを考えていた」

「あの」

「それで、頼む」

「ちょっと」


…なんだかいろいろと、理解が追い付かない。いやそもそも凡人である私が牛島さんの思考を理解することなんて不可能に近いことなんだろうけれども。
それにしても、さすがに、

牛島さんの感覚や常識もぶっ飛びすぎてはいないだろうか。


「最上」


そしてついに、牛島さんの口元を覆っていた私の手が、牛島さんによって外されたのだった。再び私の右手首は、牛島さんに拘束されることとなったのだった。


「好きだ」


そして再び、牛島さんの唇が私のそれに触れたのだった。


「…………。」


あ、なんだろうこの感覚。またデジャヴだ。頭が真っ白になって、何も考えられなくなるような。
これ、いつ抱いた感覚だっただろうか。たしかもうずっと前に、一度だけ、


「!?」


そんなことを考えているさなか、私は無意識に左手の平を牛島さんの脳天に向けて振り下ろしていた。


「理解が、追い付かないんですけど!?」


そしてらしくも無く大声で叫びながら牛島さんに詰め寄った。牛島さんの頭をひっぱたいた左手の平は、どういうわけか尋常でなく熱かった。


「…え、あ…すまない」


牛島さんは頭を抑えながら驚いたような顔で、私を見下ろしていた。
その表情は、あの、初めての脳天スパイク事件のときのそれと、全く同じものだった。

…かくしてどういうわけか、俄かに信じがたいことに、私と牛島さんは恋人になってしまったらしい。しかして恋人って、果たしてどんな関係性のことを言うのだろうか。
未だ真っ白なままの脳内では、そんなこと、考えたところで正解なんて見つかるわけも無かったのだけれども。

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トリトマに乾杯 Fin.

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