10.子離れ希望者と小学校教諭志望者
時刻はもう22:00。梟谷生が泊まる教室の一つ隣りの空き教室にて、木兎さんの夏休み特別補習が開催されていた。練習後で妙なテンションになっている木兎さんと相対するみずくさんは、持ち前の女神っぷりを炸裂させるかの如く優しく、丁寧に指導を進めていく。
教室であるだけあって、机もあれば黒板だってある。しかもクーラーも付けていないというのに、気温も快適。ともすれば、木兎さんにとっては学校での補習を受けるよりもずっとずっと良い環境なのかもしれない。そうでなくともそのまま通常通り補習を受けていようものなら、間違い無く木兎さんは合宿に思いを馳せつつ抜け殻状態になっていたであろう。本人がそんなコンディションで得ることができる学力だなんて、たかが知れている。だから本当に、木兎さんは恵まれていると思う。
黒板を背にして微笑むみずくさんの姿には、後光が差して見えた。そしてどういうわけか、その姿を見る度目頭が熱くなるのだ。
「みずくちゃん、字ィうめぇな」
「そうですね。小学校の先生みたいです」
「字ィ上手い女の子っていいよな」
「そんなことより黒尾さん。さっさと音駒部屋に帰って下さい」
「あの字で俺にラブレター書いてくんねぇかな」
「帰って下さい」
らしくもなく苛々が募った。
黒尾さんのことだから、木兎さんの補習だなんて面白がってちょっかいを出してくるであろうことはまぁ普通に想定していた。でもあろうことか、この人は今、我らが女神を“ちゃん付け”しやがったのだ。それがどうしても聞き捨てならなかった。
本日初対面の女性、しかもよりによってのみずくさんに対して、そんなチャラついた態度を持ってしてかかるだなんて。仮にそれをみずくさんが不快に感じて、その足で東京に帰ってしまったらどうしてくれると言うのだろうか。俺の主観でしか無いけれども、みずくさんは真面目な人だから、黒尾さんのような見方によってはミステリアスぶりつつチャラチャラしている野郎にも見える男の人は苦手なんじゃないかと思うのだ。ほぼ会話も交わしたことが無い段階で壁ドンけしかけた俺が言うのもなんだけれども。
「折角だから俺も、みずくチャン先生におベンキョ教わりてぇなぁ」
「黒尾さんは頭が良いので必要ありません」
薄ら笑いを浮かべる黒尾さんを睨み上げながらそんなことを言うと、黒尾さんはにっこりと胡散臭い笑顔を浮かべたのだった。
「そんなコトより、赤葦くんに朗報です」
「あ、もう帰ってくれるんですか?お疲れ様ですおやすみなさい」
「みずくチャン、キミのコト意識してるらしいですヨ」
黒尾さんはわざとらしく、俺の耳の横に手を添えて小声でそんなことを言ってきたのだった。なんだかイラッとした。
「それは良かったですおやすみなさい」
「嘘じゃねぇよ。直接聞いたし」
「はいはい分かりましたおやすみなさい」
なんだかごちゃごちゃと言っていたけれども、ひたすら別れの挨拶を繰り返していたら黒尾さんは観念したかのように補習会場を後にしたのだった。
一つ溜め息を吐いて黒板のほうに向き直ると、補習のほうは相変わらず順調に進んでいた。木兎さんもやはりしょぼくれモードには陥っていない。こちらの気も知らず相変わらず楽しそうなところが、癪に触らないわけではないけれども、
「解けたー!!」
「すごい!木兎くん文武両道!」
少し斜に構えて見てみても、どういうわけかみずくさんも至極楽しそうなのだ。彼女のことだから、木兎さんやともすれば俺に気を遣ってくれた上での演技だという可能性も否めない。けれどもなんとなく、みずくさんは素で楽しんでくれているのだろうと感じた。もしかしたら、彼女にとって理不尽極まりないこの状況下、せめてそうであって欲しいという俺の希望的観測もあるのかもしれないけれども。
「…………?」
それにしても、そう言えばさっき黒尾さんが去り際に何かを言っていたような気がする。
たしか、みずくさんが俺を意識している、とかそんな内容だったはず。
…意識って、なんだろう。意識している、ってどんな状況だろう。
「終わったー!」
「木兎くんお疲れ様!今日の分、もう完璧だね!」
「俺、完璧!?ヘイヘイヘーイ!」
そんなことをモヤモヤと考えていると、予想よりも早く一日目の補習は終了したらしかった。
ハッと我に返って黒板のほうを見ると、まともにみずくさんと目が合ったのだった。
「みずくさん。ありが「赤葦くん。練習でお疲れのところ、付き合ってくれてありがとうございました!明日もどうか宜しくお願いします!」
みずくさんは、俺の礼の言葉を遮ってそんなことを言ってきたのだった。
なんだか頭が真っ白になると共に、まるで点と点が線で繋がったような、そんな感覚に陥った。
「とんでもないです、みずくさん…」
もしかして黒尾さんの言うところの“意識している”というのは、みずくさんは“木兎さんの保護者という気苦労の絶えない立場にいる俺を、慈しんでくれている”ということではないだろうか。
そう考えると、みずくさんの不自然なまでの俺に対する丁寧さだとか、まるで俺の顔色をひたすらに窺うような言動とか、そのようなもの全てに説明が付いてしまうのだ。
なんということだろう。彼女はどれだけ大きな器の持ち主だというのだ。彼女にとってはまだ第三者の人間でしかない俺に対しての、まさかの温かな気遣い。いよいよ涙が溢れてきそうになり、慌てて平静を取り繕いつつ視線を彼女の目から逸らした。
「…あ、赤葦くん…?」
些か不自然すぎる態度だったかもしれない。みずくさんは不安げな顔をしながら、俺の顔を覗き込んできたのだった。
「みずくさん…今日は本当に先生みたいで、素敵でした」
そして咄嗟に口を付いて出てきたのは、そんな的を外した言葉で。いや、これ先生のくだりいらなかったな。素敵でした、だけのほうがより俺のこの抑え切れない感謝の気持ちを伝えつつ、距離も縮められたのかもしれないのに。
「あ、赤葦くん…!本当に嬉しいです、ありがとうございますっ…!」
「………?」
しかして相手は女神。俺の一人脳内反省会なんて全く必要無い、とでも言うかの如くここでも満面の笑顔を向けてくれるのだ。
「こちらこそ、ありがとうございます…」
思わず跪きたくなる衝動を必死に抑えつつ、彼女に一番伝えたかったことだけを、やっとの思いで呟いたのだった。
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