5.紳士と聖人


「じゃ、明日も頼んだぜー!」


校門にて、元気よく手を振る木兎くんに手を振り返す。木兎くんは難題の数々を悉くやっつけたのが余程嬉しかったのか、スキップ混じりに駆けて行った。可愛い。
しかしてそんなほっこりとした心境は、直後一気に張り詰める。私の隣りでは、姑兼PTA(仮)が相変わらず鉄仮面を被り続けているのだ。時刻は21:00。なるべく早く終わらせることを目標にはしてみたけれども、これは早いと言えるのだろうか。恐る恐る彼の顔色を窺うと、その涼しげもとい冷たい視線がまともに私の目に突き刺さってきたのだった。


「…お疲れ様です。」


そしてなんとも感情が読み取り辛い声色で、彼はそう呟いた。血の気が引いた。 行間に“まぁハードな練習をこなした後の木兎さんと俺はあなたの比ではないくらいに疲れているんですけどね”という主張をひしひしと感じた。


「と、とんでもない、です」


もっともっと精進しよう。たしかに時間をかければいいというわけでも無い。それに何より、木兎くんはともかく赤葦くんは毎回何をするでもなく待っていてくれているのだ。強豪校である梟谷学園男子バレー部の主将と副主将の貴重な時間を、私は一度に預かっているのだ。
可及的速やかに状況を改善しなければ。


「さ、帰りましょうか」

「…はい」


そう言って踵を返した彼の背中を追い掛ける。
なんだか真横に並ぶのも気まずいから、ちょっと斜め後ろをついていくくらいにしよう。それなら顔も見えないし。


「すみません。速かったですか?」


とか言っているうちに、その人は立ち止まって私のほうを振り向いたのだった。そんな、滅相もない。むしろそんな長い脚を持っているのによくそんなにゆっくり歩けるなぁ、というくらいにゆっくりと歩いてもらっている次第だ。
私は反射的に、どうか今この時間だけ脚を20cmくらい長くして欲しい、と神に祈っていた。


「そんなこと、ないですよ!」


なんだか逃げ出したい衝動に駆られた。


「…そうですか」

「!?」


すると、俄かに信じがたいことが起こった。なんと私の左手は、赤葦くんの右手に拘束されてしまったのだ。所謂“手を繋いでいる”という状況になる。
こんなイケメンくんとそんな状況になったら、体温の一つでも上がっていいものだろう。しかして私の身体ときたら、どういうわけか一気にさぁっと冷えていくのだ。
まるで「逃げ出したい」という感情を即座に読まれてしまったかのようで、とうとう彼に対しての恐怖心が自分の中で鮮明なものになってしまったみたいだ。


「みずくさん」

「は、はい」

「どうして俺に敬語なんですか?」


そしてそんな状況で歩き続けると、彼はまたなんとも際どい質問を投げかけてきたのだった。
そんなの、理由なんて言うまでもないじゃないか。この状況で、どうして私があなたに対してタメ口なんて馴れ馴れしいものを使うことができるというのだ。


「俺年下なんですから、普通にしてください」


罠だ。これは絶対罠だ。私の直感がそう叫んでいた。
これはいわばあれだろう。就活のときの“平服でお越し下さい”と同じ類のトラップだろう。それを真に受けて普段着で行こうものなら即切られる。かと言ってリクルートスーツで行こうものなら“指示に従わない”とばっさり切られたりもする。なんだか就職希望の友人が少し前にそんな社会の理不尽さを嘆いていたような気がする。
この場合、赤葦くんの用いた“普通”という表現は恐らくノットイコール“気軽に”なのだろう。いや、これちょっと難しすぎないか。正解がどれなのか皆目見当もつかなければ、無難な答えも見つからない。


「…丁寧な言葉を使われている人に思わず丁寧な言葉で返したくなるのは、相手の年齢とか関係ないと思います」


私 何 言 っ て ん の ! ?
なんだか理屈がめちゃくちゃだし、しかもなんだか言い回しがイヤミっぽくなってしまった。もしも赤葦くんが本当に気遣って言ってくれた言葉だったら、カンジ悪いにも程がある。赤葦くんにしてみたら“折角俺が気を遣ってやってんのに何的外れな理屈ほざいてんだよ”的なかんじだろう。しくじった。本当にしくじった。


「…みずくさんは、お考えも素敵な方ですね」


うん。
赤葦くん、絶対キレてる。きっと彼の言うところの“素敵”とは、ニアリーイコール“いい度胸してる”なのだろう。
いよいよ本格的に血の気が引いたのだった。



―――――――



どうしよう。
とりあえず手なんて繋いでみたものの、さすがにちょっと焦りすぎてしまったかもしれない。折角一緒に帰るという状況になったのだから、そのくらいはやっておかないとと思ったのだけれども。それに夜道、このあたりは街灯も少なくて危ないし。
しかし恋愛にはいろいろと段階がある、とはよく聞く話だ。もしかしたらドン引きされたかもしれない。チャラい男だと思われたかもしれない。
その証拠に、みずくさんは終始俺に向かって丁寧語を使っている。これは要するに距離を置かれている、ということだろう。思わず手を放してしまいたくなったけれども、自分から握っておいてあまりにも不自然すぎるし気まずい。
とりあえずは間も保たないから、その理由を聞いてみた。


「…丁寧な言葉を使われている人に思わず丁寧な言葉で返したくなるのは、相手の年齢とか関係ないと思います」


彼女は思いの外人格者だった。伊達に救世主と呼ばれていない。
一後輩でしかない俺に対しての、その気遣い。彼女の木兎さんへの接し方と照らし合わせると、自分の中にある可能性が芽生えたのだった。


「…みずくさんは、お考えも素敵な方ですね」


この人、聖人君子なんじゃないか?しつこいようだけれど救世主なだけに。
だって恐らくこの人は、現状木兎さんへ恋なんてしていない。その根拠は先刻の木兎さんの地雷発言への対応。仮に想い人に“好きな人いる?”なんて聞かれたら、少なからず動揺するものだろう。それなのに彼女は、一切そんな素振りも見せずそれをいなしてみせた。
だとしたら、彼女はなんの見返りも無く木兎さん、もといあの脳内9才児に毎日毎日丁寧に勉強を教えてくれていることになる。こんな遅い時間まで。
聖人だ。絶対聖人だ。


「いえ、私なんて全然…。今日も木兎くんを、遅い時間まで拘束してしまいましたし、」





「木兎くんも…あと赤葦くんも、練習で疲れているのに…どうも私の教え方が未熟で、」


え、何言ってんスかこの人。そんな心の底から申し訳無さそうな、表情と声色で。
時間がかかるのは、どう考えたってあの9才児が原因だ。いやむしろ、彼女の貴重な時間を奪っているのはあの9才児のほうで、


「もっと、もっと頑張ります。だからどうか今後とも、宜しくお願いします、」


その人はそう言うと、俺の右手を握る力を若干強めたのだった。


「…………。」


どうしよう。

なんと相手は、まごうことなき女神だった。


「…はっ!すみません、生意気なこと言って…!」


これ、いくら俺が釘を刺したところで木兎さんが彼女に惚れるのも、時間の問題じゃないか。
いや、女神は母性本能も強いと聞く。木兎さんはきっと既に彼女の保護欲求をくすぐりまくっていることだろう。彼女だっていつそれを恋と勘違いし始めるかも分からない。つまるところ、事は急を要する。ただ、


「とんでも、ないです…」


女神って、どうやって落とせばいいんだろう。


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