6.受験生と信者
「よしっ!」
早起きしてまとめた指導案がしっかりと鞄に入っていることを確認し、靴を履いて一度気合いを入れた。
今日は金曜日。木兎くんの数学追試は来週の月曜日の朝。
と、なると実質今回の勉強会は今日が最後だったりする。なんでも土日は男子バレー部は週末泊まりがけの遠征がある、とか。つまるところ、木兎くんには今夜で完璧な状態になってもらわないといけない。しかし時間には限りがある。
今日は放課後、木兎くんの練習が終わるまでの時間、更に指導案を練り直そう。木兎くんがあんなに頑張っていたのに追試に落ちるだなんてこと、絶対にあってはならない。そして万が一にもそんな状況に陥ってしまったら、あのPTAさんにも何を言われるか分かったもんじゃない。
「行ってきまーす」
頭の中で今日の流れの段取りを再確認しつつ、私はドアを開けた。
…大丈夫。基礎的なところは、もうある程度木兎くんも理解してくれている。あくまで追試だから範囲だって分かりきってるし。大丈夫。
「おはようございます」
「!?」
思わず踵を返して家に駆け込みたくなってしまった。
何故、噂のPTAが、私の家の前で出待ちをしているのだろうか。一瞬で身体は謎の緊張感に苛まれたのだった。
「?」
「お、おはようございますっ!」
するとそのPTAときたらなんとも気怠げな顔で首を傾げてくるものだから、私は必死に我にかえり精一杯誠実そうな挨拶をしてみた。
「…おはようございます」
すると彼はにっこりと微笑み、律儀にも再び挨拶を返してくれたのだった。どうしよう。“あなたは挨拶すらまともにできないのかしら?”といびられているような気がしてならない。とにかく私の中での赤葦くんのイメージ、せめてPTAか姑かのどちらか一つに固まってくれないものだろうか。
そしてこの場合、この挨拶については返事をするべきか否か。どうしよう、したらしたで不自然だし、しなかったらしなかったで後が怖い。
「…おはよう、ございます…!」
結局私は、しない後悔よりもしてからの後悔を選んだ。
すると赤葦くんは、一瞬きょとんとした後にふふ、と小さな声で笑ったのだった。
「みずくさんって本当に、律儀な方ですね」
だから嫌みにしか聞こえませんってお義母様!心臓がばくばくと鳴っていた。
「赤葦くんには、適いません…!」
「え?」
我ながらこの状況では唯一無二と言えるくらいの無難な回答を選んだはずだ。それなのに、なんだろう。どうしても“なんでそんな分かりきったことをわざわざ言うんです?社交辞令という言葉をご存知?”という赤葦くんからの主張がひしひしと伝わってくるのだ。
「そして、みずくさん」
「は、はい」
なんでこう、朝から一挙一動にいちいち細心の注意を払わないといけないのだろう。いや、むしろ社会人になればそれこそ常に世間様の目はついてまわる。小学校教諭、という立場であれば尚更。
これはやはりもしかしたら、神様が私に与えてくれた絶好のリハーサルなのかもしれない。そう考えると、改めて身の引き締まる思いがした。
―――――――
「とうとう今日が、追試前最後の勉強会ですね」
「そ、そうですね!」
「今まで本当に、木兎さんがお世話になりました」
俺がこんなお礼をするのもどうかと思うけれども、そもそも木兎さんが追試に落ちる可能性だってあるけれども、ひとまずはお礼を伝えた。これが少しでも、次の試験の際にもみずくさんが木兎さんに力を貸してくれることに繋がるのなら、俺はもはや土下座だって進んでしたいと思っている。
みずくさんは俺の言葉を受け、目を見開いた後にどういうわけか焦ったような表情を浮かべたのだった。
「そ、そんな恐れ多い!私も、やりたくてやってることですし!」
「………!!」
ああ、やっぱり女神だった。
どこの世界に、自分も受験生という立場でありながら脳内9才児に積極的に勉強を教えてあげたいという聖人がいるのだろうか。いや、実際ここに存在しているのだ。
みずくさんは本当に驚いたような顔で、まるで寝耳に水、とでも言うかのように訂正を入れてきたのだった。
なんだかひたすらに眩しかった。いっそ神々しかった。俺ももう少し、木兎さんに優しくしてあげよう、なんて思う程に。
「こう言ってはなんですが、」
「は、はい!」
「ご都合の限りで、また今後も木兎さんのこと、お願いさせてもらえると有り難い限りなんですが…」
さすがに少し図々しすぎただろうか。今後も何も、今月末からはもう夏休みが始まる。夏休みといえば、受験生にとっては天王山。他人を気にかけている余裕だなんて無いだろうに。
どうしよう、調子に乗ってしまったかもしれない。そんなことを思いながらみずくさんの表情を横目でちらりと伺うと、みずくさんはポカンとした顔をしていた。
「…すみません、図々しいことを言ってしまって」
内心冷や汗が止まらなかった。どうしよう、ここで丁重に断られたら。最悪木兎さん、春高出場とかもヤバいんじゃないか。
「ぜ、是非っ!!」
「!?」
しかしてみずくさんは、これでもかと目を輝かせながら快諾をしてきたのだった。
どうしよう、いよいよ目頭が熱くなってきた。みずくさんの聖人っぷりが、とどまるところを知らない。だって貴女、受験を控えているんですよ?受験って、人生すら左右してくるんですよ?それなのに、それなのに…!
「あ、あの!木兎くんや赤葦くんの、迷惑じゃなかったら…という前提ですが」
ああ、もう…!
「迷惑なわけ、ないじゃないですか…!」
「!?」
思わず感極まって目頭を抑えてしまった。
確信した。俺、木兎さん云々を除外して考えても、いずれ絶対にこの人に惚れる。
いや、もはや既に信者だ。
「ありがとうございます…」
改めて心からのお礼を伝えると、女神はやはりその謙虚さ故、ひたすらにオロオロとし出したのだった。
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