#3


 かつて客の予約をこんなにも待ち侘びたことがあっただろうか。事務所の電話が鳴るたびに、耳をダンボにして前のめりにヤキモキしている。
 凪くんは最初からわかっていたのだ。さも気付いてません知りませんというような涼しい顔をして、私を見下し、私の隣でいけしゃあしゃあと眠りこけていた。どうして何も言ってくれないの。どうして私を指名したの。いったい何が目的なの。聞きたいことは山ほどあるけれど、最重要確認事項はただひとつ。誰にも言ってないよね? ということ。言わないで、お願い。どうかお願いします。







「うわ、びっくりした」

 のんびり開かれたドアに手をかけてこじ開ける。気怠げな垂れ目をまん丸にした忌々しい男がそこに立っていた。此処で逢ったが百年目。成敗してやる。しかしラブホテルの廊下で戦争を始めるわけにもいかない。キャストである以上、私だって一応体裁は気にするのだ。大男を押し込むようにして、図々しく部屋に入り込む。もちろん不法侵入ではない。この男はまたしても私を指名したのである。

「凪くん、いったいどういうつもり?」
「ほぇ…?」
「私のこと、最初からわかってたの?」
「あーうん、まあ」
「…てっきり私のことなんて、覚えてないのかと」
「苗字さんも俺のこと、覚えてない感じだったよね」

 覚えていないことがあるか、仮にも母校のスーパースターだぞ。なんならテレビでだって見たことあるわ。しかし、覚えていない振りをして爆睡している貴方からちゃっかり指名料とロングコース料金をいただこうと思ってました、なんて正直には言い難く、ぐっと唇を噛んだ。
 しんと白けた部屋にそぐわぬ有線放送が流行りのJ-POPを淡々と流している。何だか、どんどん惨めな気持ちになってきた。間違いなく、彼と私は同級生だったのだ。同じ教室で同じ黒板を見て、同じテストを受けて同じ空間にいた。対等な立場であったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。片や天才プロサッカー選手、片や貧困デリヘル嬢。前回も、その前も、今日だってそうだ。気がつかない振りをしていたけれど、彼が指定してくる部屋はめちゃくちゃ高い。所謂スイートルームというやつだろう。この仕事をしている私には、痛いくらいにそれが分かる。痛いくらいに眩しいシャンデリア。痛いくらいに、惨めだ。

「…からかってるの? 冷やかしに来たの? なんなの…」

 自分で言って、泣けてきた。悔しいくらいに羨ましくて、腹立たしくて、恥ずかしい。視界がぼやけて身体が震える。凪くんが今どんな顔をしているのか、私にはわからなかった。

「このこと…誰かに言った?」
「言ってないけど」
「…ほんとに?」
「うん」
「……お願い。何も見なかったことにして、全部忘れて。お願いします…凪くんのおちんちん舐めるから、お願いします」

 鼻を啜りながらしゃがんでベルトに手をかける私を見て、凪くんは初めて狼狽えた。

「なにやってるの…ちょっと待って。座って、落ち着いて。俺の話も聞いて」
「…凪くんの話?」
「うん、ごめん。俺、眠くて頭回らなくて、渡すタイミング完全に見失ってたんだけど」

 これ。と、凪くんがポケットから手渡す。意気消沈した私は素直に両手で受け取った。それは、塗装も剥げてすっかり汚れたクラゲのキーホルダーだった。

「これ…」
「覚えてない?」

 にっこり笑うクラゲと見つめ合う。私がずっと大切にしていたもの。









「苗字さん、落としたよ」

 後ろの席の凪くん。私の記憶が正しければ、初めて話しかけてくれた気がする。すっと差し出された大きな手に、かわいいクラゲのキーホルダーが乗っていた。
 私はその時、どんな顔をしていただろう。クラゲの笑顔のその先に、失意の底を見ていた気がする。深海のように真っ暗な闇が、そこにあった。

「…いらない、あげる」
「え」
「いらない」
「いや、俺もいらないけど」
「じゃあ、捨てていいよ」

 凪くんは、面倒くさいことになったという顔をしていた。しかし私はそんな彼に構う余裕もないくらい、何もかもがどうでもよかった。この世の全てが憎かった。消えてしまいたかった。お母さんは、ずるい。









「これ…ずっと持ってたの?」
「あの時の苗字さん、何か変だったから。落ち着いた頃に返そうと思ってたんだけど」

 クラゲから視線を逸らせずにいる私に構わず、凪くんは言葉を紡いだ。

「その後すぐにブルーロックにいって、戻ってきたら苗字さん学校辞めてたから」

 そういえば、あの頃はそんな時期だったか。封じ込めた高校時代の思い出が鱗のようにぽろぽろ剥がれ落ちて、少しずつ記憶が蘇ってくる。

「俺、知らなかったから。苗字さんの父親が亡くなってたこと」

「ごめん。気になって、苗字さんの友達に少し話聞いた」



──名前、このダサいのいつから使ってんの?
──あ、これ…小学生の時にお父さんに買ってもらって、なんか捨てられないの
──えーでもボロッボロだよこのクラゲ、さすがにやばくない?

 よく友人に揶揄われていたことを思い出した。懐かしい。あの頃の私はよく笑っていて、あの頃の私にはまだ、夢があった。

「そんなこと聞いたらますます捨てられないし、正直めんどくさいなーって思った。返そうにも、今どこにいるのか、何してるのか、何で辞めたのか、誰も知らなかったし…。でも良かった」

「大事なものなんでしょ、それ」

 時間が巻き戻るかのように、手のひらのクラゲが綺麗になっていく幻覚を見た。涙が一筋頬を伝うと、そこから溢れて止まらなかった。

「うぇ…苗字さん、えっと、大丈夫?」

 凪くんは大きな体を丸めて、しゃがみ込む私の背中をぎこちなく摩った。温かい手だった。私は汚いキーホルダーを固く握りしめて、声をあげて泣いた。手のひらが痛い。このままクラゲに刺されて、毒に溺れてしまえたらいいのに。

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