#4


「デートコース?」

 カップラーメンを啜る手を止めて、店長の言葉を片言に繰り返す。
 待機室にやってくるなり「クラゲちゃんも結構やるねぇ」と勝手に盛り上がる店長に、私は怪訝な眼差しを向けていた。

「いやね、デリでわざわざデートコース選ぶ人ってなかなかいないのよ。デートしたいならそれ専門の店に行けばいい。うちでするより全然安いからね」
「はあ」
「それでもデートしたいってことは、クラゲちゃんと普通に街を歩いてみたい、クラゲちゃんの違う顔を見てみたい、ってことでしょ? もう完全にホの字ってことだ」
「ホの字」

 それって死語ですよね? という言葉は胃の奥へ流し込んでおいた。
 それよりも、私をデートコースに誘うような、それこそ私にホの字の客なんていたっけな、といろんな顔を思い浮かべてみる。いったい誰だろう?

「がっちり捕まえといてね、凪さん。太客になるかもよ〜」

 ──ブーッ! ラーメンを勢いよく吹き出してしまった。慌ててティッシュで拭く。

 なにがどうなると彼がデートコースを予約することになるのか。私は口元を拭いながら記憶を辿った。
 私の認識だと、無事にキーホルダーを返したことで、凪くんを縛りつけていた面倒ごと≠ヘ消え、彼は晴れて自由の身になったはずだった。

──突然泣き出してごめん、気にしないで
──もしかして、マジで捨てといた方がよかったやつ?
──ううん違うの、ごめんね

 あろうことか同級生の前で号泣してしまった失態が昨日のことのように思い浮かんで、消えたくなる。
 関係ない彼を無自覚に巻き込んで、面倒事を課して、泣き止むまで側に居てもらったことも、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 涙の理由を知られたくなくて話題を変えようと、そのあと必死に紡いだ言葉が「テレビ見てたよ、すごいね」だったのもなかなか無理があったのではと思ったけれど、彼は彼で「あ、うん。ありがと」なんてあっけらかんとしていたので、上手く誤魔化せていたのだと思っていた。
 私達は晴れて無縁になったのだ──と、思っていたのに。









 私は指定された水族館の前に立っていた。予定より三十分遅れて、凪くんはやってきた。お代はしっかりいただくから遅刻に関しては無問題である。

「凪くん、いったいどういうつもり?」
「あ、ごめん。途中でゲーセンあったから、つい」
「そうじゃなくて、なんでデート……っていうかもうキーホルダーは返してもらったし、ご用件は……?」
「俺が泣かしちゃったのかと思って、お詫びのつもりだったんだけど」

 お詫びのデートで平然と遅刻するな。
 というツッコミは心の中だけに留めておく。

「いや、凪くんのせいじゃないから……」
「そうなの? まぁいいや。クラゲ好きなんでしょ、見に行こ」

 否応なしにさっさと歩き出した背中を、私は慌てて追いかけた。






 夜の水族館に来るのは初めてだった。
 平日だからなのか人もまばらで、辺りはしっとりと仄暗い。何処からともなく水がちょろちょろ流れ落ちる音が聞こえてくる。
 私達は微妙な距離感で静かな通路を歩いていた。
 数歩後ろから凪くんの横顔をちらりと盗み見る。相変わらずなにを考えているのかわからない顔をしている。まさか彼とこんな場所に来ることになろうとは、高校生の私にはまるで想像もできなかっただろう。
 そしてそれはきっと彼も同じ。
 私達のこの曖昧な関係は、いったいなんと形容したらいいのだろうか。

 通路を抜けると広い場所に出て、私は思わず息を呑んだ。目の前には、大きな海の世界が広がっていた。
 色とりどりの魚たち、大小様々なアカエイやドチザメが悠々と暮らし、鰯の大群が波のようにうねり泳いでいる。
 私は誰にも気付かれないように小さく感嘆の溜息をついて、目に焼きつけるように、ただ真っ直ぐこの大水槽を見つめていた。
 私や凪くんよりもずっとずっと高い上の方から月のような光が射し込んで、薄暗い会場をターコイズブルーに染めてゆらゆらと揺らめいている。
 私は仕事も忘れて純粋に楽しんでしまった。

「あ、凪くん見て。なんか書いてある」
「なに?」
「大水槽のサメが他の魚を食べないのはなぜでしょう?=v
「うぇー……なんだろ」
「えっと答えは……めんどくさいから=H」

 私は堪えきれず、ぷっと吹き出してしまった。

「なにそれ、凪くんみたい」

 その時、凪くんがまるで珍しい物を見たとでもいうように目を丸くしたので、私はハッとして口を噤んだ。
 ──しまった。久々の水族館に浮かれて完全に油断していた。
 苗字名前じゃなくて、クラゲちゃんでいなきゃいけないのに。これは仕事、なのに。私は誤魔化すように視線を逸らした。








「こっちクラゲゾーンだって」

 凪くんが指を差したその先にトンネルのような通路が伸びていて、私達は導かれるように潜り抜けた。
 そして目の前に現れたクラゲの水槽を見上げて、私は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
 記憶の底にある、クラゲの水槽だったのだ。
 当時小学生だった私の曖昧な記憶が目の前の景色とぴったり一致した。どこの水族館だったかなんて全く覚えていなかったけれど、まさかこんな形で巡り会えるなんて。私は絶句して、ただただ立ち尽くしていた。

「苗字さん、どしたの?」
「……ここ、お父さんと来たことがあるの」

 桃色のライトがパノラマ水槽に漂う無数のクラゲをぼんやり照らしている。
 そっと近寄って、冷たいガラス越しにクラゲに触れた。指先で記憶をなぞるように、確かめる。


──綺麗だろ、名前
 お父さんの声がする。

──クラゲってなにを考えているの?
──なにも考えていないよ、クラゲには脳が無いんだ
──えー? じゃあ嬉しいも楽しいも、なにもわからないの? そんなの嫌だ
──そうだね。でも名前は嬉しいことも楽しいこともたくさん経験して、立派な大人になるんだよ
──うん。クラゲはやだよ、かわいそう

「凪くん知ってる? クラゲってね、脳が無いの。なにも考えなくていいし、なにも感じなくていいの」

「死んだら溶けてなくなって、何も残らない」


──名前、クラゲのキーホルダーが欲しいのかい?
──うん。これはね印なの。名前はたくさんのことを経験して、お父さんみたいな立派な大人になるよって、約束の印!


「凪くんがキーホルダーを拾ってくれた前の日ね、お母さん、一度も帰ってこなくて──」


 頬が冷たくなって、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。
 水槽のガラスに反射した自分の顔が一瞬、少女のように見えて、言葉を失った。


「……あれ、……じゃない? 本物……?」


 不意に小さな囁き声がする。
 振り返ると二人組の女性がちらちらとこちらを見ていた。そうしてようやく気付く。周囲には凪くんを見ている人が何人もいた。そうだ、彼は有名なサッカー選手だった。こんな目立つ場所で私のような女を連れてうろうろしてていい人じゃない。

 凪くんと目が合う。
 突然、彼の背後から大きな歓声が聞こえてくるような気がした。
 私の脳裏に浮かぶのは、大きな瞳をギラギラと炎のように燃やして、右の拳を天に突き上げる凪くんの姿。汗が弾む、彼の輝かしい姿。
 私はそれを、じめじめした薄暗い地下駐車場の車のなかで見ていた。
 明日を、未来を生きるお金が欲しかった。          
 仕事を探したら十八歳にならないと駄目だと言われた。紹介できる店はないけれど、紹介できる男性ならいると言われた。
 車のなかで、初めて男の人の性器に触れた。小さなカーナビに映る凪くんの姿は、万札を握りしめた空っぽの瞳にどう映っていたのだろうか。私はほんの少しだって思い出せない。

「……ごめん、なんでもない。帰ろう、凪くん」

 目の前のクラゲが、いつの間にかフリルガラスのランプシェードにしか見えなくなっていた。
 タイマーを付けたスマホがポケットのなかで震えている。デートコースはもう終わりだ。

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