#5
午後四時に目が覚めた。
昨日、私は五回クラゲになって、五本の接客を成し遂げた。さすがに疲れた。今日は休日だ、ゆっくり過ごそう。
三ヶ月前に住み込み寮を出て、一人暮らしを始めた。お世辞にも綺麗とは言えないボロアパートのワンルームだけれど、あのプライバシーもへったくれもない場所よりは随分居心地が良い。
それに、転々としていた暮らしがようやく落ち着いたことがなにより嬉しいのだった。
布団に包まれたままスマホをいじる。なんとなく再生した動画で、大食いユーチューバーがお刺身をたらふく食べていた。きゅるるとお腹が鳴る。
この間水族館で見上げたお魚達のことが一瞬頭を過ったけれど、しかし私はお刺身が食べたかった。
「まぐろ、サーモン、いかそうめん……」
だいたい卵かけご飯だとか納豆だとか、コンビニで買った適当な物を食べて過ごしている日々だけれど、こんな日はたまのご褒美にお刺身を食べたっていいじゃないか。
思い立って、立ち上がる。スウェットにショートパンツ。近所のスーパーくらいならギリ行ける。ポニーテールを高い位置に結っておけば、寝起き感も多少誤魔化せるはず。
スニーカーを履こうと思ったけれどなんとなくそれすら億劫で、サンダルを突っかけてお魚をお迎えに行く。
最寄駅のそばにあるスーパーで、サラダをカゴに放り込んで、ずらりと並ぶお刺身をひとつひとつ吟味する。
とりあえず、いかそうめん確保。
そうやって人差し指をとんとんと顎に当てているのは無意識だった。久々のご馳走に周りが見えなくなるほど集中してしまっていたらしい。
「お、やっぱり」
お刺身パックに手を伸ばしたとき、横に立っていた男がこちらを覗き込むようにして、目線を合わせてきた。
白い髪、灰色の瞳。それは最近、本当に何度もよく見る顔なのだった。
「な、な、な、凪くん」
「よく会うね」
奇遇だね、みたいな言い方をしているけれど、いつもそちらが指名してくるから会っているだけなのである。
わかっているのかいないのか、いまいち掴みどころのない男だ。
「どうして凪くんがここに……?」
「俺ん家すぐそこ」
「えぇ……」
「苗字さんこそ、なんでここに」
「私の家も割と近いので……」
話の途中でふと思い出す。
私いま、めちゃめちゃだらしない格好してるんだった。部屋着、すっぴん、適当に結った髪。正直、誰にも会いたくなかった。いまさらとは思ったが、せめて顔を伏せる。
「なんか苗字さん、いつもと雰囲気違うね」
「見ないで見ないで……! すっぴんなの」
覗き込む凪くんを遮るように、片手でガードする。
「なんで隠すの。別に大丈夫じゃん、かわいいし」
「か、かわ……?」
耳を疑った。仕事柄、褒められ慣れている方ではあるけれど、今のは不意打ちだ。思わず赤面してしまう。
いったいどんな意図が、と思って見上げると、凪くんはけろっと他人事のような顔をしていた。
凪くんって、女の子を口説くようなことを平気で言うような人だったっけ、と思ったけれど、たぶん逆だ。凪くんだからこそ、平気で言えてしまうのかもしれない。
彼は、本当に何の気なしに言っているのだ。なにも考えていない。犬とか猫を見て反射的に言うのと同じで、当然、下心なんてものは微塵たりとも持ち合わせていないのだろう。
現に凪くんはもう私のことなんか見ていなくて、辺りをきょろきょろ見渡しているのだった。
「とにかく、私はこれで……」
「苗字さんって、一人暮らし?」
「え? うん、そうだけど……」
「そ。気をつけてね」
「あ、ありがとう……?」
取り損ねた寿司パックをカゴに放り込んで、半ば逃げるようにレジへ向かう。
ちらりと凪くんを振り返ると、呑気にひらひらと手を振っていた。
会計を済ませて、私はなんとなくせかせか帰路を歩いた。まだ凪くんがこちらを見ているような気がして振り返ったけれど、そこには誰もいなかった。
◇
デートコースの予約が入った。
まさか、とすぐにあの寝惚けた顔が思い浮かんだけれど、今回予約したのは彼ではなかったようだった。
拍子抜けて溜息をつく。安堵の中にほんの少し、別の感情が混ざっているような気がして、私は鼻を啜った。
「最近調子いいね、クラゲちゃん」
店長は嬉しそうだった。
私は本当はちっとも嬉しくなんてないのだけれど、稼ぐぞという心意気で同じように笑ってみせた。
デートコースを予約した客はいつかの歯科医、ゴリさんだった。
彼は私のことがよっぽど気に入ったらしい。
高級ブランド店が林立する並木通りに私を連れて行き、あれはこれはといろんな物を買い与えようとした。
しかし私は、鞄だとか、腕時計だとか、そういった類いの物にちっとも興味がなかった。売ったらいくらになるだろうと不埒な考えが一瞬頭を過ったけれど、すべてが億劫だった。
それは後々面倒なことになるかもしれないと危惧したからか、あるいは、ショーケースのガラスに反射した自分が、そこに陳列されているように見えたからかもしれない。
「クラゲちゃん、もしかしてそれ苦手?」
アクアリウムのあるダイニングバーで、男が不意を突いてくる。
大皿にちょこんと飾られたガランティーヌに、私が手をつけずにいたからだ。
「すみません。好き嫌いなんて、子どもみたいですよね」
「いや、いいよ。むしろ苦手な食べ物が知れて嬉しいな」
カラフルな野菜が詰め込まれたそれを見ると、冷凍のミックスベジタブルを思い出すのだ。
味が嫌いだとか、食感が駄目だとか、そういう単純な味覚の問題ではない。
「ところでクラゲちゃんって昔、矯正してた? 歯並びいいよね」
俺、歯医者さんだからわかっちゃうんだ。
男は得意げに笑っている。
ナイフとフォークを置くと、カチャリと音が鳴った。それはステンレストレーに器具を置く音によく似ていた。
カップルシートの奥にカウンターがあって、そこに大きなクラゲの水槽があった。
照明が虹色に変化して、クラゲが色鮮やかに明滅している。
歯列に沿って並ぶ虹色のカラーモジュール。
幼い頃の自分の笑顔がフラッシュバックして、私はしばらく返事ができなかった。
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