#6
凪くんがまた私を指名したらしい。
なにを企んでいるのかと詮索しても結局、彼は気まぐれにひと眠りしに来ているに過ぎないのだ。
今日も今日とて180分。また私はあなただけの抱き枕≠ノなるのだろう。
寝転がっているだけでいいだなんていう客は他にいないし、文句を言うつもりはない。ホテルに向かうまでにスマホを充電しておく。乗じて暇つぶしする気満々であった。
「……どーも」
しかし、今日の凪くんはなんだかおかしい。
そう直感したのは、彼の瞳が濁っていたからだった。じとっと向けられる冷たい眼差しに、ただただ困惑した。
なにも怒らせるようなことはしていないはず。あのスーパーで遭遇して以来、凪くんとは一度も会っていないからだ。これが私に対しての態度だというのなら、全く身に覚えがない。
はたまた単純に機嫌が悪いだけなのだろうか、真意は不明だ。
「凪くん、なんか機嫌悪い?」
「別に」
「そ、そう……」
口を尖らせて前金を押し付けてくる。らしくない。やっぱり不機嫌じゃないか。
もうなにも考えたくない。なにも感じたくない。目を瞑って、深い海にダイブしたい。凪くんの態度で一喜一憂したくない。調子が狂うのだ、彼といると。
「あー……凪くんまた寝るんだよね? 私、ピアス外すね」
逃げるように背を向けて、鏡の前に立つ。
耳たぶに手を伸ばすと、突然手首を掴まれた。
「──苗字さんってさ」
キャッチが外れて床に落ちた。
静寂のなかにコロコロ、と転がる小さな音を聞いて、今日は有線放送切ってあるんだ、とどうでもいいことを思った。
「俺の前だとあんまり笑わないよね」
声が、出ない。否定したかったけれど、自信がなかった。
凪くんと過ごす記憶のなかの私は、いったいどんな顔をしていただろう。
「この間、街で見かけたけど」
手首を掴む力が強くなる。いつもの寝惚けた彼からは想像もできないくらい、それは男の人の力だった。
「隣にいた奴、あれ苗字さんの彼氏?」
隣にいた奴。記憶を辿る。街で並んで歩いたとなると、きっと凪くんが言っている人物は例の歯科医、ゴリさんだ。
燻った炭のような瞳に取り込まれ、尚も声が出せない私は小さく首を横に振った。
冷ややかな目が詰る。私はまた石のように固まって、動けない。凪くんは身を屈めて、わざとらしく視線を絡めてくる。蛇が巻き付くみたいに。メドゥーサ。違う。彼は、違う。私は少し泣きそうになっていた。
「──じゃあ、あいつも苗字さん指名して、こういうことしてるんだ」
不意に唇が重なる。口を塞がれるようなキスだった。
突然のことにびっくりして、私は目を見開いた。
呪縛が解けて、反射的に身体を押し返そうとしても、手首を強く引き寄せられて不本意に身体が密着した。
「え、あ、なぎ、くん」
やっとの思いで絞り出した、からからに渇いた声。力の抜けた私の身体を、凪くんはいとも容易くベッドに押し倒した。
頭が追いつかない。なにを考えているのかわからない凪くんの後ろで、シャンデリアが揺れている。眩しい。目が痛い。掴まれた手首が痛い。心臓が、痛い。
ふわふわの白い髪が首筋を撫でて、そこに熱い舌が這う。びくりと大袈裟に肩が震えた。凪くんの瞳に光が見えなくて、私はもうなにも見たくなくて目をぎゅっと瞑った。
「や、やめ──」
言いかけて、無意識に抵抗していた手を緩める。
──やめて? 違う。私はクラゲちゃんなのだから。この行為を許して、お金を貰って、自らこの部屋に来た、あなただけの抱き枕<Nラゲちゃん。
私は泣いていた。客に触れられて泣いたのは、この仕事を始めた日以来だった。
受け入れなくてはいけないのだった。すべて。感情を押し殺して、抵抗する権利を諦めて。凪くんは他の人とは違うんだって、心のどこかで信じていた、愚かな自分を封じ込めて。
首にちくりと痛みを感じた瞬間、私は静かな深い海を想像した。なにもない、永遠の海へダイブしたい。そしてクラゲになって、ふわふわ浮かぶのだ。なにも考えなくていい、なにも感じなくていい、脳の無い、可哀想なクラゲ。
「シャワー、浴びますか……?」
涙を隠すように小さい声で尋ねたら、余計に震えて情けなかった。
唇の隙間から零れたよそよそしい敬語は、クラゲちゃんになり損ねた私の死骸だ。
凪くんは小さく息を呑んで、止まり、ゆっくりと起き上がった。
燃え立つ炎にバケツの水をかけたみたいに大人しくなった凪くんが、私を呆気なく解放する。
濡れたまぶたを持ち上げると、ひどく傷付いたような顔がそこにあった。私は少し驚いて、身体を起こした。
「凪くん……?」
「俺、最低だ」
俯く顔を覗き込むように身を屈めると、その身体を抱きしめられた。
凭れ掛かるというよりも優しく包み込むかのようで、それは今度こそ、確かな抱擁だった。
「ごめん、苗字さん……今日はもう帰って」
瞬きをしたら凪くんの肩に涙が落ちた。
そっと腕を解いて、ベッドから降りて、もう一度振り返ってみても、彼は項垂れたまま動かなかった。
ふわふわの白い前髪が影を落として、凪くんの表情を隠している。
優しく抱きしめておいて、「帰って」だなんて。凪くんは、ずるい。
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