#7


 大きな書店に来ると、つい時間を忘れてだらだら滞在してしまうのは、私の悪い癖だ。目当ての本を購入したら、さっさと帰るべきだった。今、私は心の底から後悔している。

「うぇ…苗字さん?」

 新刊コーナーを見終わって、その流れで隣の列を見るためにくるりと角を曲がったところだった。ありがちな恋愛ドラマさながら、背の高い男性とぶつかりそうになり、それがまさか凪くんだったなんて。珍しくばつが悪そうに目を泳がせている彼に、私は「…よく会うね」といつかの彼の台詞をそのまま言うことしかできなかった。

「あー…苗字さん、何か買いに来たの?」
「うん。ちょっと本を…」
「あ、あー…うん。そりゃ、そうだよね」
「うん…」

 私達は互いに書店の紙袋を抱えていた。何とも言えない居心地の悪さが漂って、さすがの凪くんも困ったように頭を掻いていた。

「じゃ、サヨウナラ…」
「う、うん…じゃあね」

 ぎこちない別れの挨拶を終えて、それぞれ来た道を引き返す。そして別々の通路を通って、やがて同じ出口に到着する。

「…なんでついてくるの」
「な、凪くんこそ」
「帰り道こっちだし」
「私も、帰り道こっちだし」

 まるでショートコントみたいだが、言うまでもなく打ち合わせなどしていない。当然といえば当然だった。私達は最寄駅が同じなのだから。仕方なく距離をとって、私は凪くんの少し後ろを歩くことにした。うう、気まずい。電車は違う車両に乗ろう。そんなことを考えていると、不意に背後から声をかけられた。

「クラゲちゃん」

 昼下がりに呼ばれたその名の異様さに、思わずひっと声が漏れる。紙袋を両手で抱きしめると、グシャっと音が鳴った。冷や汗が顳顬を伝って、嫌な予感がして、振り返る。

「俺のこと、NGにしたでしょ」

 そこにはあの歯科医、ゴリさんが立っていた。一度デートコースで接客して以来、私はこの人をNG──接客拒否していた。どうしてここに? 偶然出会ったにしてはやけに落ち着いている彼の立ち姿に、眩暈がした。

「まあ、でもなんとなく理由はわかったよ」

 ゴリさんは冷静に笑っていた。全てを見透かして、見下しているような話し方だった。

「クラゲちゃん、たまにここの書店に来るよね。それでよく5階の…医書コーナーで、本を買ってる。今日も買ったんだよね? 歯科学の本」

 ──キュイーン、ゴウゴウ。
 超音波とバキュームの音。激しい耳鳴りがして、私は耳を塞いだ。抱えていた紙袋が地面に落ちて、飛び出した本のページがぱらぱらと捲れている。彼の言うとおり、それは歯科学の本だった。

「それで毎月…児童養護施設に、その本を届けてるよね。あれ、誰にあげてるの? 妹? 弟?」




 ──…姉ちゃん

 ──姉ちゃんは、どこにも行かないでね

 荒れ果てた部屋。ぐちゃぐちゃのクローゼット。叩き割られた貯金箱。うちで一番大きなお皿に、冷凍のミックスベジタブルを混ぜ込んだケチャップライスが山盛りになっている。それはもうすっかり冷めきって、端っこの米粒が固くなっていた。弟が私の服の袖を引っ張って、靴箱を指差している。そこに、母の靴が一足も残っていなかったから、私はようやく気が付いたのだ。これは母が私達に作る、最後の手料理なのだと。それは皮肉にも、弟の大好物だった。





「ねぇ、好きな子 泣かせるのってそんなに楽しい?」

 突然視界が真っ暗になる。凪くんの声がして、耳鳴りが止んだ。頭に上着をかけてくれたのだと、確認しなくてもわかったのは、彼の匂いに包まれたからだった。

 私はまた、泣いているのか。凪くんの前だと、私はいつも泣いている気がする。

 上着の隙間から覗くと、私を隠すように立つ大きな背中があった。凪くんは、ゴリさんの胸ぐらを掴んでいた。

「俺、全然楽しくないんだけど。何がそんなにおもしろいの? 教えろよ」

 今にも殴りかかりそうな勢いだったから私は冷静になって、慌てて彼の背中にしがみついた。
「やめて」必死に声を絞り出すと、凪くんの動きが止まった。やがてその腕をだらんと脱力させて、睨み合っていた二人が離れる。

「…別に、脅しに来たわけじゃないよ。提案をしに来たんだ。もしクラゲちゃんの兄弟が専門的なことを学びたいのなら、俺が面倒を見てやってもいい。その代わり、クラゲちゃんはお店を辞めて、俺の側にいて」

「…苗字さん、行こう」

 凪くんが地面に落ちた本を拾って、私の腕を引いた。もつれそうになる足を支えるように、肩を抱いてくれる。ゴリさんがそれを見て怒ったり、追いかけてきたりしないことが余計に不気味で、恐ろしかった。

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