#4


──4年前


 この日も朝から雨が降っていた。
 帰り道、凪は黒い傘を差して、スクールバッグを背負っていた。目の前にはいつものカラフルな傘が揺れていたので、凪の目はチカチカと眩しかった。

「ねぇ」
「なに?」
「うるさいんだけど」

 名前がびっくりして勢いよく振り返ると、露先から弾けた雨粒が凪の頬にかかった。凪は顔色ひとつ変えない。

「わたし何も喋ってないよ…?」
「その傘、何本持ってるの?」
「えぇ…?」

 しぶしぶ見上げる名前の頭上には、なるほど小学生の頃と同じ鮮やかな虹色が広がっていた。
 とは言え、全く同じものを使い続けているわけではない。強風に煽られてひっくり返ったのが戻らなくなったり、子犬にあげてしまったりと、買い替えたことは何度かある。しかし名前は何度でも、ハッピーになれる虹色を手に取ってしまうのだった。

「四次元ポケットのひみつ道具なのかも」
「…どういうこと」
「壊れてもいつの間にか復活する、お決まりのやつだよ」

 名前が適当なことを言って手元をくるりと回すと、7色の生地が順番にあしらわれているパラソルがメリーゴーランドのようにくるくると回った。

「あ、でも本当にあるよ。"絶対安全傘"っていうひみつ道具」
「へー」
「身の回りに危険が迫ると、絶対に守ってくれるんだって」

 じゃあ、そういうことにしておこうかな。と言って嬉しそうに虹を見上げる名前は、昔から夢想的なところがあった。
 動物と心が通じ合えるだとか、手と手を繋げば捨てられた子犬に願いが届くだとか、そういうあやふやな夢物語を本気で信じているのだ。
 だから、名前が本を好きになることは必然だったのだろう。
 SF、ファンタジー、恋愛小説。タイトルを見るだけで眩暈がするようなものばかり。「白雪姫がキスで目覚めるなんて、ロマンチックだよね」なんてお伽話を始めた時はさすがの凪もたじたじだった。「そんなのありえないよ」と言ったら「誠士郎くんってやっぱりロマンがないよ」と名前はいつものように口を尖らせたが、「実は君を白雪姫のようだと思ったことがある」だなんて言ったら、いったい彼女はどんな顔をするだろうか。

「あ、猫だ!」

 不意に、目の前を黒猫が横切った。名前が声をあげると、黒猫はぴたりと止まってこちらを見上げた。
 凪はどうせ逃げられると思っていたが、しかし黒猫はしゃがみ込んだ名前の方にすり寄ってきたのだった。

「君は、人懐っこいね」

 慣れた手つきで警戒心を解いていく名前を見て、凪は自分だったらこうはいかないとその光景を眺めていた。

「誠士郎くんも、撫でる?」

 名前が徐に顔をあげると、凪は首を振って「いい」と拒んだ。名前は「えー」とおもしろくなさそうに口を尖らせて、黒猫を解放してやった。
 二人の間をすり抜けて、黒猫は歩き出した。「ばいばーい」と手を振って小さな背中を見送っていると、突然、黒猫があらぬ方向に駆け出してしまった。名前の表情が凍りつく。嫌な予感が広がる。

「──待って! そっちはだめッ…!」

 それは、一瞬のことだった。
 車道に飛び出した黒猫が、車と衝突。弾き飛ばされた小さな体がガードレールにぶつかって、ぼとりと落ちた。
 名前は声にならない声をあげて、傘を投げ捨てて、走り出した。

「名前」

 引き止める凪の声は届かない。仕方なく虹色の傘を拾って、その背中を追いかける。
 乗用車はまるで何事もなかったかのように走り去っていった。まあ人を轢いたわけじゃないしなと、凪はその時、無情にも納得していた。

「あぁ、どうしよう…っ!」

 名前はぐったりと横たわる猫に近づいて、わなわなと震えていた。今にも泣き出してしまいそうな背中に、凪はそっと傘を差した。

「きっともう、助からないよ」

 濡れたアスファルトに赤黒い血が滲んで広がっていく。名前は黒猫の胸に手をあてて、それから何か思い出したかのように、ぽつりと呟いた。

「……この先に、動物病院あったよね」
「あったと思うけど」
「連れて行く」

 名前は猫を抱きあげて、前を向いた。

「……名前」
「まだ、生きてる」

 その瞳は、凪を黙らせるには十分すぎるほど真っ直ぐだった。夢物語を信じる者の瞳。とても敵わない。凪は小さく息を吐いた。

「誠士郎くんは先に帰ってて!」

 そう言って、名前は走り出した。
 雨の中走るなんて最悪だ。凪はそう思ったが、それ以上に、彼女が一人で涙を流すのは彼にとって最悪なことだった。
 凪は虹色の傘を畳んで、やむなく彼女の後を追いかけた。



 動物病院に着く頃には、黒猫は既に死んでいた。名前はずっしりと重たくなった小さな体に気づかないふりをして、動物病院に駆け込んだのだ。

「もう亡くなってるね。……毛並みもいいし、この子はきっと飼い猫だから、飼い主が探しにくるかもしれない」

 だから、元の場所に返してきてね。と獣医は名前を労るように、優しく声をかけてくれた。名前は酷く落ち込んで肩を落としていたが、凪は内心ホッとしていた。
 猫が無事に助かったとして、その後のことを名前はきっと何も考えていないからだ。
 野良猫だったらどうするつもりだったのだろう? 診察代は? 手術が必要だったら? 重い後遺症が残ったら? 一生介護が必要だったら? 非力な少女に、果たしてこの猫の全てを背負うことができるのだろうか。
 凪は「行こう」と名前に声をかけると、ありあわせの段ボールに黒猫を入れてくれた獣医に頭を下げて、動物病院を後にした。



 猫が撥ねられた現場まで戻る時、凪は何も言わずに名前に傘を傾けてやったが、名前は既にずぶ濡れだった。それでも傘を差してやりたくなったのは、彼女が雨に紛れて泣いているような気がしたからだ。
 名前は近くの茂みに段ボールを置くと、筆箱から油性ペンを取り出した。そうして段ボールの側面に「飼い主さんへ」と文字を書き始めた。

『車にはねられてしまい、動物病院に連れていきましたが間に合いませんでした』

 段ボールの中で、体を丸めた黒猫が静かに飼い主を待っている。名前は寄り添うように小さな手に触れ、それからそっと目を閉じた。祈るように、目を閉じた。

「もう死んでるのに、願いが届くの?」

 淡々とした声が降る。名前は徐に顔をあげた。

「…届くよ、きっと届く」

 名前は泣いてなどいなかったのだ。その瞳はいつだって真っ直ぐ、ありもしない夢物語を信じていた。

「誠士郎くん、傘ありがとう」

 そう言って虹色の傘を受け取ると、名前は黒猫が雨に濡れないように傘を置いてやった。

「絶対安全傘、貸してあげるね」

 もちろん既に死んでいる黒猫にこれ以上の危険が迫ることはないし、雨の冷たさも、疎ましさも、もう感じることはないのだろうが。凪は言いかけて、口を閉ざした。

「帰ろう、誠士郎くん」

 振り向いた彼女は、あまりにも凛としていた。






 翌日は青々とした空が広がり、よく晴れた。梅雨の合間の貴重な晴天だった。
 凪と並んで登校し、件の現場に差し掛かった時、名前は段ボールの小さな変化に気づいて慌てて駆け寄った。
 名前が残したメッセージのすぐ下に、飼い主から返事が届いていたのだ。

『助けてくださって、ありがとうございました』
『素敵な虹をかけていただき、救われる思いでした』

 飼い主は無事に黒猫を見つけて、家に連れて帰ったのだろう。そこに黒猫の姿は見当たらず、代わりに丁寧に畳まれた虹色の傘がぽつんと置いてあった。

 凪は名前の隣に並んでそのメッセージを読んでから、ちらりと彼女の横顔を盗み見た。
 名前は静かに泣いていた。晴れ渡る青空の下、頬を伝う涙は朝露のように煌めいていて、凪の目はチカチカと眩しかった。
 凪は無意識に、彼女の右手に触れていた。名前は驚いて、一瞬ぴくりと身体を震わせたが、拒むことなくそれを受け入れた。
 凪の温もりに包まれた途端、名前の涙はとめどなく溢れだした。凪は何も言わずに、彼女の嗚咽に寄り添っていた。
 もう二人に言葉はいらない。繋いだ手から伝わるはずだと、彼女がそう信じていたように。

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