#3

 全体練習の合奏が終わり、撤収作業が始まった音楽室には気の抜けた穏やかな空気が漂っていた。
 「苗字さん」ふいに名前を呼ばれる。

「最近、すごく上手になったよね」

 声をかけてくれたのは三年生の先輩だった。トランペットがとても上手な、憧れの先輩。
 わたしは思わず飛び上がり、「ほ、ほんとですか!?」と浮かれ騒いでしまった。

「うん、音が明るくなったよ。朝練してるんだって?」
「は、はい!」
「えらいね。毎日一人で自分の音と向き合ってるなんて」

 大好きな先輩に褒められて、嬉しさのあまり謙遜もせずにえへへと頬を緩めてしまう。「あ、でも」ふと、最近仲良くなったクラスメイトの顔が浮かぶ。

「一人で、ってわけじゃないんです。実は、クラスメイトの男の子に朝練に付き合ってもらってて……」
「えぇーッ!? その話、詳しく聞かせてくださいっ!」

 大きな声で会話に転がり込んできたのは、今年入部したばかりの一年生。トランペットがよく似合う、元気で明るい女の子だ。
 わたしがありのままの出来事を話すと、彼女は何故か頬を染めて「きゃーっ!」と一人で盛り上がっていた。

「ヤラシイですよ、もうっ! 先輩ったら!」
「ヤ……ッ!?」

 飛び出してきたとんでもないワードに、慌てて後輩の口を塞ぐ。

「今の話にヤラシイ要素あったかな!?」
「えぇ〜! だって、誰もいない教室に男女が二人きりって、ねぇ……」

 わたしたちってそういうお年頃じゃないですかぁ。とニヤニヤ笑っている。

「それで、付き合うんですか?」
「なにが!?」
「そのクラスメイトの人と」

 話が飛躍しすぎている。付き合う? 私と孤爪くんが? なんだか勝手に想像するのも失礼な気がして、わたしはぶんぶんと首を振った。

「そういうのじゃないから! 孤爪くんとはただの友達で……!」
「えぇ〜! 向こうは友達と思ってないかもしれませんよ」
「え……」

 わたしがショックを受けて固まると、後輩は「そうじゃなくて」と呆れたように肩をすくめた。
 それからちっちっちと人差し指を振って、
 
「先輩って、男女の友情は成立するって思っちゃうタイプの人ですか?」

 と、得意げに恋愛論を説いてくる。けれど、その言葉はちっとも響いてこなかった。
 この時のわたしは、孤爪くんの友達認定って確かに厳しそうだな──と、そんなことばかり考えていたのである。





「……ねぇ、なにかあった?」

 ギクッとして、音を外してしまう。振り返ると、怪訝な顔でじっとこちらを見つめる孤爪くんがいた。慌てて目を逸らす。

「なっ、ななな、なんにもないよ?」
「不自然なくらい目が合わないんだけど」
「…………」

 彼の鋭い洞察力には敵わない。

『ヤラシイですよ、もうっ! 先輩ったら!』

 ──ふと昨日の記憶が蘇り、ゲホゲホと噎せ返る。孤爪くんはますます顔を顰めた。
 誰もいない教室に男女が二人きり。事実として、確かにそうだ。けれど、わたしたちは後輩が期待するような関係ではない。わたしと孤爪くんは友達……のはず。そこが、自信を持って言えなくなってしまった。
 孤爪くんにとって、わたしってなんだ? 『別に……ただの知り合い』第三者に聞かれたら、彼はそう答えるような気がしてならない。
 そんなことばかり考えていたら、心の不安がもやもやと根っこのように伸びていって、練習に集中できないどころか、孤爪くんの顔もまともに見れなくなってしまっていた。これは、非常にまずい。

「いつもよりミスも多いし……練習の意味ある?」

 ごもっともである。わたしはだらだらと汗を流した。正直に話すべきだろうか。

「……おれ、いない方がいい?」

 孤爪くんが気まずそうにゲームの電源を切ったので、わたしは全力で「そ、そんなことないよ……!」と首を振った。

「じゃあ、なに?」

 じとっと見つめる、猫のような瞳。きっと孤爪くんに嘘なんて通用しない。わたしは観念して、けれど、『わたしたちって、友達だよね?』と真っ正面から聞く勇気も持てず、「実は……」と昨日の出来事だけを話した。

「……バカじゃないの」

 開口一番、孤爪くんはそう言ってため息をついた。男女が二人きりだとか、ヤラシイだとか、そういう話はあんまり好きじゃなさそうだ。

「別に、堂々としてればいいじゃん。──友達なんだから」

 と、友達……! パッと勢いよく顔をあげると「うわ、なに」とただびっくりしている孤爪くんがいて、恥ずかしがることもなく言ってくれたのだと思うと、余計に胸がジーンとした。
 クラスでも友達なんて作ろうともしなかった孤爪くんが、当たり前のようにわたしを友達だと思ってくれていた。そのことが、こんなにも嬉しいなんて。
 もやもやと伸びていた根っこの上に、パッと小さな花が咲いた気がした。

「なんでそんなに嬉しそうなの」
「ううん、なんでもない」

 にまにまと笑ってはぐらかすと、孤爪くんはぶっきらぼうに目を逸らしたけれど、今度は理由を問い詰めてくることはしなかった。

「よーし! 練習するぞーっ」
「……切り替え早いね」
「うん。せっかく先輩にも褒めてもらえたし、もっと頑張らないと!」
「先輩……?」
「三年生の先輩でね、すっごく上手なんだよ! 音が明るくなったねって褒められちゃった」

 孤爪くんのおかげだね。そう言って微笑むと、照れ屋さんは俯いてゲームを始めてしまった。

『先輩って、男女の友情は成立するって思っちゃうタイプの人ですか?』

 いつか聞いた恋愛論は、わたしの頭の中からすっかり忘れ去られていた。
 わたしたちは、これからもずっと友達。
 恋なんてしたことがないわたしは、その言葉をただひたすら真っ直ぐに、純粋に、信じていた。

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