19 背中を押す
「苗字さん、」
いつも待ち構えるように席に着いていた名前に呼びかけてみても、俯いたままの顔をあげてはくれなかった。赤司は何か言いかけた口を閉じて、そのまま名前の前を通り過ぎていった。俯いたまま黙り込んだ名前のその瞳には、ただ赤司の遠ざかる足元だけがやけにスローモーションに映っていた。挨拶を、交わさなかった。2人の関係が終わってしまったように思えた。あえて無言で通り過ぎていった赤司は、“話したくない”という名前の心情を察したのかもしれない。あの日、ブレザーを貸してくれた時と同じ様に。
▽
「赤司くんは、迷惑だったんだと思う…」
腫れ上がった名前の瞼は、名前の沈んだ気持ちを現すかのように、ずっしりと重たそうだった。ハナ子は誰もいなくなった放課後の教室で、静かに名前の背中を摩っていた。
「迷惑だ、なんてそんな事思うような人じゃないってこと、名前が一番良く知ってるんじゃないの」
だからこそ、“聞くつもりはなかった”と謝る赤司の気まずそうな表情が名前を苦しめていた。あの場から謝って去って行った、という赤司の行動が、片思いの名前には何より辛かった。
「こんなダサい気持ちの伝え方でいいの?ちゃんと、自分の口から言わないと、どっちにしろ後悔するわよ」
「伝えたって…きっとまた、あの時と同じ表情にさせちゃう。困らせるだけだよ…」
「…名前、」
膝を抱え込んで顔を埋める名前に言いかけたハナ子の言葉は、勢い良く開いた教室の扉の音に遮られる。2人が吃驚して教室の扉に視線を移せば、そこにはミランダが立っていた。
「征十郎がどうやって女の子を振るか知ってる?」
唖然とするハナ子を無視して、ずかずかと名前の元に歩み寄ると、ミランダは訴えかけるように名前のその腫れた目を見つめた。
“優しく微笑んで、振るの”
ぽた、ぽた、と涙が落ちる音が微かに聞こえて、ミランダにしっかり焦点を合わせた名前はハッと息を飲んだ。下唇を噛んだミランダが、声を押し殺して静かに涙を流しているのだ。何かを耐えて、それでも名前に必死に訴えかけるように。
「ミランダ、さん…」
「征十郎に、あんな悲しそうな顔させるなんて、苗字さんってば、本当羨ましいんだから…」
ごしごしと乱雑に腕で瞼を擦るミランダに、不意にぎゅっと抱き締められる。されるがままの名前はただ、瞬きを数回繰り返した。
「苗字さんが笑ってないと、私の大好きな征十郎が笑ってくれないんだから…!早く征十郎のところへ行ってあげてよ…!」
ハナ子は今度は、声をあげて泣きじゃくるミランダの背中を摩っていた。やがてハナ子によってミランダは名前から引き剥がされる。ミランダが次々に告げてくる言葉一つ一つを理解できずにただ唖然としている名前の背中を、ハナ子は軽く叩いた。
「もうすぐ、バスケ部の練習が終わるんじゃない?」
「で、でも…」
「赤司くんを困らせちゃうって?…名前は今まで赤司くんのことで散々悩んだり、落ち込んだりしてきたから…たまにはちょっとくらい、赤司くんを困らせてみてもいいんじゃない?」
まあ、赤司くんが人の好意を迷惑だ、なんて思うこと自体ありえないんだけどさ、とハナ子は笑った。
「行ってきな、名前…赤司くんのこと、好きなんでしょ」
涙目のミランダと、微笑むハナ子の視線が名前に降り注ぐ。そして、2人に励まされた名前の足は、漸く動き出した。
「好きだよ…ッハナ子ちゃんも、ミランダさんも、好き…!」
顔を真っ赤にさせて泣きながら教室を飛び出した名前を見送りながら、ハナ子は静かに涙を落としたミランダの背中を再び摩るのだった。
▽
体育館の電気は既に消されていて、人の気配は無かった。全力で走ってきた名前は肩を上下させながら、苦しそうに呼吸を整えた。辺りをキョロキョロと見渡すと、ちらほらと生徒の姿はあるものの、そこに赤司の姿はなかった。がっくりと肩を落として足元を見つめる。小さな諦めの感情が頭を過ぎったが、それを断ち切るように名前はぶるん、と頭を振った。
(今日、今すぐに伝えたい)
もう一度探そう、と意気込んでいると、すぐ後ろから声を掛けられて、名前はビクッと肩を揺らした。
「苗字さん?」
「あ、ああ、赤司くん…!」
暗くても声ですぐに赤司だと気付いた名前は、声を裏返しながら彼の名を呼んだ。そして一瞬、2人の間にギクシャクとした空気が流れるが、先に赤司が「…どうしたの?」とその沈黙を破った。
「あ、あのね!赤司くんに、話があって…」
両手をぎゅっと握って、鼓動を落ち着かせようとしてもそう上手くは行かずに、名前の心臓はバクバクとその音を響かせた。彼はもう自分の気持ちを知っているのだから、怖いものは何もない、のかもしれない。
「…俺も、苗字さんに話したいことがある」
でも、それでも、やっぱり怖いと感じてしまうのは、この恋がずっと、一方的な片思いだったからなのだろう。それでもせめて、今までの恋の作戦や努力に恥じない様に、精一杯伝えるだけだ、と名前は意を決してその赤い瞳を見つめた。
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