09 改心の前夜
デート前日の土曜日。名前は自室のベッドに寝転んで、携帯の画面に映し出された赤司の連絡先を眺めていた。明日、自分が赤司と二人でデートするだなんて未だに信じられない気持ちでいっぱいの名前は、既に部屋に飾ってある当日の私服に視線を移した。期待と緊張と不安が心の中で混ざろうとして分離していくような、何とも言えない気持ちになっていた時、手の中の携帯が震えて慌てて身を起こす。画面には”ハナ子”の文字。きっと心配してかけてきてくれたのだろう、と名前は微笑んだ。
「もしもし、ハナ子ちゃん?」
『名前、調子はどう?風邪引いてない?』
「もう、心配しすぎ」
電話に出るなり、ハナ子があまりにも本気のトーンで聞いてくるものだから、名前はくすくすと笑ってしまった。
『あんたのことだから前日に体調不良とかあり得ると思ってね…』
「大丈夫だよ。心臓はすごくドキドキしてるけど、頭の中は結構冷静なの」
そう、名前は妙に落ち着いていて、赤司とデートという大イベントの前日にしてはテンションが低かった。普段の名前からは考えられないような状況に、ハナ子は首を傾げたが、まだ彼女の中でもこの喜ばしい現実を現実と受け入れられていないのだろうと思い、それに触れることはしなかった。
『今日は早く寝なさいよ』
「うん」
『家を出る前に自撮りして送ってね』
「うん」
『クラシックコンサート、居眠りしちゃだめよ』
「…」
まるでコントみたいだ、とハナ子は突っ込もうとしたが、その沈黙があまりにも長いので、耳を澄ませて名前の様子を伺った。それでも無機質なノイズが聞こえてくるだけで、ハナ子は冗談抜きで心配になった。
『ちょっと名前…?どうしたの?』
「…私、本当に赤司くんとデートしていいのかな」
はあ?と声を荒げたくなったが、名前の弱々しい雰囲気を察知して、ハナ子はぐっと堪えた。一体全体どうしてしまったのか。ハナ子には皆目見当がつかない。ハナ子が思った通りにそのまま、どうしたの?と聞けば、再び若干の沈黙の後、名前はこれまた突拍子もないことを言い出したのだ。
「ハナ子ちゃん、ミランダさんのお家わかる?」
『は?え、ミランダ…?元々同じ中学だったし、わかるけど…』
「…教えて」
電話であるということもあって、ハナ子は今名前がどんな顔をしているのか全くわからず、いつもの冗談もふざけた冷たい言葉もかけられずに、大人しくミランダの家の場所を伝えた。すると、ありがとう、と何かを決心したような名前の声が聞こえて、ハナ子は何となく名前が何を考えているのかわかった気がして焦り始めた。
『ねぇ、名前、あんたまさか…』
ぶつん、と虚しく通話が切れて、ハナ子はどうすることもできずにその画面を閉じた。
▽
外灯が点り始めた頃、名前はぐるぐる巻いたマフラーに顔を埋めながらミランダの家のインターホンを鳴らした。名前を告げ、はい、とややあって玄関から出てきたのはミランダ本人だった。玄関と外の門が離れているために、ミランダは煉瓦で作られた綺麗な道をぱたぱたと走ってやってきた。
「あ、ええと、」
「苗字…隣のクラスの、」
そこまで言えば漸く理解したようで、ミランダは警戒心を解いた笑顔を名前に向けてくれた。
「苗字さん、どうしたの?」
「これ…」
ぴら、と見せたのは明日のコンサートチケットだった。ミランダは何が何だかわからない、と言った様子で取り敢えずチケットを受け取り、その内容に目を通して瞳を輝かせた。
「こ、これ、どうしたの!すごく楽しそうね!」
「先生に貰ったんだ。ミランダさん、行かない?」
「え、でも…いいの?苗字さんは…」
「いいの!…それから、」
赤司くんも同じチケットを持ってるの。そう告げればミランダの嬉しそうな顔が忽ち真っ赤に染まり、動揺を隠し切れずに瞬きを繰り返した。まるで名前がミランダの気持ちを見透かす様な発言をしたことで、言葉に詰まったミランダの代わりに名前が口を開いた。
「あとね、私も赤司くんが好きなの!」
元々外を走ってきた所為で鼻と頬が赤く染まっていた名前の顔は、そう告白した後でさらに赤くなって行く。ミランダは目を丸くさせ一瞬固まるも、えっ!と初めて声を荒げた。ミランダは戸惑い視線を泳がせたが、やがて下唇を噛み締めている名前を上目使いで見上げた。ただただこの状況の理解に苦しむミランダは、控え目に名前に告げた。
「そ、それならどうして…尚更、このコンサートに行きたいんじゃ…」
「…私、本当は元々クラシック聴かないんだ!」
「え、…」
「嘘だったの。ただ赤司くんと仲良くなる為だけに付いたずるい嘘…」
ミランダは目を丸くさせながら何も言わずに名前を見つめていた。名前はそう言い終えながら伏せていた目をあげ、ミランダをしっかり見つめて笑った。
「ミランダさんにコンサートに行ってほしい理由はね、勝手だけど、自分への罪滅ぼしみたいなものなの!それに、このチケットは本来、コンサートを心から聴きたいって思っている人の為の物だから…」
曇りのない笑顔でそう言い切った名前を見て、ミランダはいろいろ言いたいことがあったものの、それはどこかへ飛んでいってしまった。
「…わかった。明日、征十郎と楽しんでくるね、ありがとう!」
ミランダの不満のないその笑顔を見て、名前は安心したように微笑んだ。それから別れを告げ、元来た道を引き返して歩いていく。すっかり暗くなった外は既に寒く、吐く息は白くなっていた。馬鹿みたい、と嬉しそうに呟き、輝く星を見上げた名前は、それから全力で夜を駆け抜けて行った。
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