【 社会人三年目 冬 】

 わたしはふらふらとした足取りで、新宿伊勢丹のサロン・デュ・ショコラに訪れていた。
 世界最大級のチョコレートの祭典が毎年日本でも開催され、各地の名だたるショコラティエが集結する。
 ずらりと並んだガラスのショーケースに、繊細なチョコレートの宝石が鎮座ましましている。つやつやと煌めく世界。眺めるだけでもうっとりして、倦んでいた気持ちが晴れていくのがわかる。

 バレンタインデーが目前に迫るパティスリー・スヴニールのショーケースには、後輩が考案したショコラスイーツが並んでいる。
 ──みんなよくがんばりました
 ──この経験はきっと大きな糧になる
 ちっとも胸に響かないどころか、皮肉のようにも聞こえたオーナーの言葉。
 今のわたしに必要なのは根拠のない励ましの言葉ではない。脳内物質のセロトニンにダイレクトに働きかけ、モルヒネのような作用をもつ物質を分泌するチョコレート。
 それでわたしは今、打ち砕かれた心のカケラを拾い集めている真っ最中というわけだ。

 事前にチェックしていた店舗を回り、四種のショコラやタブレット、サブレなど、一人では食べきれないほど購入した。
 本当はすべての店舗で十六粒のアソートを買い揃えたかったけど、するとあっという間に万札が吹き飛ぶのでさすがに我慢した。
 ショコラティエにサインまでもらって、ほくほくとした気持ちで帰途につく。
 ──散財? こんなときくらいいいじゃないか。
 帰ったら研磨に見せびらかそうと思った。
 買い占めてやったぞ! ──って自慢して、ひとつひとつ一緒に味わって、企画のことを全部バラして、そして慰めてほしい。

 家の鍵を開け、三和土たたきで靴を脱ぐ。夕暮れの廊下はうす暗く、研磨の部屋から漏れたディスプレイの明かりが細く長く伸びていた。
 部屋の扉をノックする。

 「研磨──?」

 ゲーミングチェアに座り、パソコンと向かい合っていた研磨が振り返る。

「あ、おかえり」

 ヘッドセットを外して、置いた──その机の上に、十六粒のアソートがあった。さっきわたしが断念したボンボンショコラ。
 すでにいくつか食べたのであろう手が、またひと粒つまんで、口へ運ぶ。

「これおいしいよ、食べる?」

 ──ぱきんっ、と何かが割れる音がした。
 わたしの心? 違う。わたしの手から滑り落ちたサロン・デュ・ショコラの宝石の音。

「……どうしたの、それ」
「なんか視聴者が送ってくれた」

 ほら、と指を差した先には、チョコレートの山。どれもこれも、わたしが散財しなければ手に入れられないようなものばかり。

「どうしたの、名前。なんかあった?」

 黙り込むわたしに、研磨は不審げに首を傾げる。

「……研磨は、いいよね。いろんな人からチョコをもらえて」

 しずかな、亀裂の音。

「え、なに……いつも名前にもあげてるじゃん」
「そうじゃなくて」 力無く首を振る。

「わたし、すごい頑張ったの。夢を叶えるために専門学校へ行って、アルバイトもして、就職して、毎日毎日遅くまで練習して」
「うん、それは知ってる……」
「卒業制作で作ったお菓子の家も、ナッペも絞りも、すごいねってみんなに褒めてもらえて、うれしかった。うれしかったのに……」

 むなしかった。
 研磨は、わたしがどんなに頑張っても、それでもまだ手の届かないところにいた。いつも隣にいた研磨が、どんどん遠く離れていく。本人にその気がなくても、残酷に、現実を突きつけてくる。

「わたし才能ないんだよね、たぶん。気づかないふりしてたけど、でも、いつも研磨が気づかせてくれるの」
「…………なにが言いたいの」

 研磨の声が低く曇っていく。

「専門学校でわたしが何て呼ばれてたか知ってる?」
 ──だめ。

「嘘つきだって。彼氏の幻を見てるかわいそうな女だって」
 ──ちがう。

「バレたらバレたで、いいなあって羨ましがられるの。仕事辞めたらいいのに、って。わたしが誇りをもって続けてきた仕事を見下げられるの」
 ──こんなこと、言いたいわけじゃない。

「うん、それで?」

 研磨はいつだって冷静だ。
 わたしはカッと赤くなる。

「──研磨といると、自分の不甲斐なさが浮き彫りになって、つらいの……っ!」

 しん、と静まりかえる。昏い部屋。
 負けず嫌いの両手がぶるぶると震えて、取り返しのつかないことをしてしまったことに動揺している。
 込み上げてくる涙。なんとか堪える。
 謝ってほしいわけじゃない。同情も違う。
 わたしはいったい、研磨になんと言ってほしいのだろう。

「……じゃあ、もう一緒にはいられないね」

 ふと顔をあげると、研磨はやさしく微笑んでいた。少しだけ切なく歪んだ口元が、やるせなく、冷静に、ことの事態を見守っている。

「おれたち、別れた方がいいと思う」

 どうしてこの人は、ここまで達観していられるのだろう。わたしは恐ろしく、そして悲しくなった。
 茫然と立ち尽くすわたしに、研磨が囁く。

「またどこかで、巡り逢えたらいいね」



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