神の涙で満ちた箱庭



穏き世界より、追想。


 教材室からの帰り道。クライヴは渡り廊下で足を止めた。
 青空の下、運動場を駆け回る授業中の生徒たちと、彼らを指導する教員たち。いつもと変わらない光景に、小さく息を吐く。

「なに辛気臭い顔をしているのかしら?」

 ふいに、斜め上から降ってきた問いかけに顔をあげれば、窓枠に腰をかけて悠然と自分を見下ろす少女と目が合った。受け取り方によっては見下されているとも取れる視線に、クライヴは気を悪くする様子もなく穏やかに返す。

「こんにちは、オフィーリア先生」

「こんにちは、クライヴ」

 挨拶を返しながら、組んでいた足をほどくオフィーリア。黒い服と対をなすような白い髪が揺れた。

「そんなところに座っていると、危ないですよ? 手を貸しましょうか?」

 オフィーリアが腰かけている窓枠は校舎の二階。見上げる分にはさほど高いと感じるような位置ではないが、落ちたら痛いだけでは済まないかも知れない。尤も、彼女に限ってそんなヘマをするとは思えないが。
 本人もわかっているのだろう、呆れたようにも見える表情で肩をすくめる。

「生憎だけれど、私が取るのは学院長か旦那の手だけだわ」

 そう言い切り、危なげなく地面へ着地してみせたオフィーリア。地に足が着く直前、ほんの一瞬だけ見えた黒い影に、彼女の使い魔の介入を知る。

「お見事です。ですが、生徒が真似したら困るので、慎んで下さいね」

「そうね、考えておくわ」

 少し乱れた髪を整えながら頷いて、オフィーリアはクライヴを見上げた。

「で、その辛気臭い顔は何なのかしら? ワリと目障りだわ」

 いつも通りの含み笑いで辛辣な言葉を吐くオフィーリアに、クライヴもいつも通り穏やかに微笑む。

「……いえ、ちょっとした考え事ですよ」

「そう。とりあえず、そういう顔は私の視界に入らないところでしてくれると嬉しいのだけれど」

 はぐらかしたとも受け取れる平凡な答えに、オフィーリアは頷いただけで深く追及してはこなかった。大して興味もないのだろう。
 他人の事情を掠めるような発言をしておきながら、決して踏み込んでこないところが彼女らしいと感心して、ふと考える。目の前の女性──『白い死神』と呼ばれていた彼女が過ごした時間は、一体どんなものだったのだろうか。

「……皆さんは、私などには想像もつかないような世界で生きてきたのでしょうね」

 再度、運動場へと目を向ければ、たくさんの教師や生徒が目に入る。その中の何人もが平穏とは言い難い過去を持っていて、それは自分などにはきっと想像も出来ないようなことなのだろう。
 そんな現実と向き合う度に、自身の平穏を幸せに思う。同時に、自分が彼らに出来ることなど無いに等しいのだと、嫌でも考える。平和な世界しか知らない自分の言葉など、彼らにとっては綺麗事でしかないだろう。
 クライヴの小さな呟きに彼の心情を汲んだのか否か、オフィーリアは呆れたように軽く息を吐く。

「クライヴも案外、お馬鹿さんね。他人の過去なんて推測するだけ無駄だわ。自分が体験しようがないことを理解しようだなんて、そんなこと絶対に無理だもの」

 時間の無駄、といつもの調子であっさりと言い切ったオフィーリアは、珍しく優しさの滲んだ笑みを浮かべてクライヴを見上げる。

「──でも、少なくとも今この瞬間、私と貴方は同じ景色を見ているわ」

 違う? と問う彼女の声は自信と確信に満ちていて、違わないでしょうと言外に伝えてくる。他人の事情を掠めても、想像など働かせずに自分の意見しか言わないところは、やはり彼女らしい。

「……そうですね」

 平穏な世界でしか生きたことのない自分には、複雑な事情を抱える他人の世界を理解することなど出来ないのだろう。理解したいと思うこと自体、驕りでしかないのかも知れない。
 ただ、穏やかに生きてきた第三者にしかわからない、外からしか見えない世界も確かにある。同じ側面から見る景色はどうしたって狭いから、別の角度から見ている誰かの存在も、多少は意味のあることかも知れない。

 ふいに吹き抜けた一陣の風は、目の前の景色を同じ方向へと揺らしていった。





fin.
2016/11/02

神の涙で満ちた箱庭
七つの水槽