神の涙で満ちた箱庭



手放した恋


「《恋》ってなんでしょうね……」

 夕方の図書館。保育科の読み聞かせで使った絵本の片付けを手伝いながら、眉間にしわを寄せたトゥーリが零した呟きに、カレンは不思議そうに首を傾げる。

「トトちゃん、どうかしたの?」

「いえ……今日、初等部の授業があって、先生は恋したことある? って聞かれたんですけど……」

 よく考えたら初恋すらまだでした……と視線を落とすトゥーリの手元には、一冊の絵本。それは王子様が困難を乗り越えてお姫様と結ばれるという、よくある筋書きの有名な童話だった。
 端から眺めている限り、彼女は既に恋をしていると思うのだが、やはり未だに自覚はないらしい。初恋すらまだだと素直に零した彼女は、物語の中でしか恋に触れたことがないのかも知れない。それならば、抱える感情を恋だと認識できなくても無理はないだろう。彼女の想い人は絵本に出てくる王子様とは少し──いや、だいぶ違ったタイプなのだから。

「恋人のいる先生とか、結婚している先生に聞いてみたらいいんじゃないかしら?」

 恋物語よりは、ずっと参考になるだろう。そう思って勧めてみれば、納得したように頷くトゥーリ。眺めていた絵本を棚に戻して、ふと思いついたようにカレンを見上げる。

「カレン先生は、恋したことがありますか?」

 そう訊ねられて、絵本を戻す手が止まる。

「……そうね、恋人はいたことがあるわ」

 直ぐに笑顔を返したが、手を止めてしまった一瞬をトゥーリは見逃してはくれなかったようだ。しまったというように小さく肩を揺らして、すがるものを探すかのように視線をさ迷わせる。
 ──あぁ、やってしまった。自分にとってはさほど深刻な話題ではないのに、この手の話はどうしても他人に気を使わせる。特にトゥーリのような気遣いの出来る子には、慎重に言葉を選ばなくてはいけなかったのに。
 不用意な発言をしてしまった後悔からか今にも泣き出しそうなトゥーリの頭を、優しく撫でる。

「恋人はいたことがあるけれど、あれが本当に恋だったのか……今となっては、よくわからないの」

 自分が大人と呼べる年齢になった頃に初めて出来た恋人は、ひとつ年上の他国からの留学生。
 彼のことは好きだったと思う。ただ、恋だったのかはわからない。ひとつはっきりしていることは、自分が彼を愛してはいなかったということだろう。
 彼に祖国へ帰ると告げられたとき、一緒に行きたいとは思わなかった。慣れ親しんだ国を離れる決心もつかなかったし、そのとき既に、彼よりもお腹の子供の存在が自分の心を占めていた。彼がいなくても子供さえいれば生きていけると、そう思ってしまったのだ。

「カレン先生……?」

 胸元にかけているロケットに、服の上からそっと手を触れて、少し困惑したようなトゥーリの頬を両手で包む。

「……童話のような恋をするのは、現実には少し難しいのかも知れないわね」

 遊ばれたとは思わない。彼はいつでも誠実だった。優しかった彼のことだから、あのときお腹の子供の話をしていたら、自分の元に残ってくれたのだろう。
 手放したのは、間違えたのは、きっと自分の方だ。

 だからこそ、いま目の前で悩む彼女がいつか恋を自覚して、彼と実りある時間を過ごせるように。一度掴んだ幸せを、手放してしまうことがないように。
 ──そう、心から願っている。





fin.
2018/02/23

神の涙で満ちた箱庭
七つの水槽