キミという糸の話
日が、傾いてきた。
教師も席を外した静かな医務室で、アハトが腰を下ろしているのは、ベッドサイドの簡素な椅子。お世辞にも座り心地がいいとは言えない椅子に、かれこれ二時間ほど体重を預ける羽目になっているのは、目の前でベッドに横たわる
今は静かな寝息を立てている彼女が、高熱を出したと聞いたのはお昼休みの終わる頃。きっと修業直後は姉たちが顔を出すだろうからと、顔を合わせないように、少し図書館で時間を潰してから様子を見に来た。
そもそも、特別心配していたわけではない。体調が良いことの方が稀な彼女のことだ。倒れる度に心配していては、こちらが体調を崩してしまうだろう。
それでも、アハトが体調を崩したノインの元を訪ねるのは、幼い頃からの習慣だった。
小さい頃、ノインが体調を崩す度に、母に連れられて見舞いに行った。今思えば、別に母はノインを心配していたわけではないのだろう。ただ『母親のいない病弱な少女を見舞う自分』を父親に見せたかっただけ。そして『異母妹を見舞う優しい息子』を見せたかっただけだ。
ふと思い出した酷く優しい母親の声を意識の外へ追い出すように、ぱたん、と開いていた教科書を閉じる。集中力の切れたついでに、そろそろ寮へ帰ろうと、鞄に教科書を滑り込ませた。
「……もう帰るの?」
寝ていたはずのノインに声を掛けられて、鞄へと落としていた視線を上げる。
熱が高いせいで不安になっているのだろうか。普段は何も言わないノインの瞳は、すがるような色を含んでいる。
「……当たり前でしょ。一通り明日の予習はしたけど、宿題だってあるんだし」
さすがに病人の横で集中できる気はしなくて、課題には手をつけていない。
医務室に来たときにすれ違ったナギが女性教師に一晩付き添ってくれるように頼んでくれると言っていたし、そろそろ戻ってくる頃合いだろう。今、自分が彼女を置いて帰ったとして、一人の時間はそう長くないはずだ。
そう納得して、立ち上がる。
「そう……じゃあ、また明日ね」
弱々しく笑う彼女に若干気が咎めたものの、じゃあねとだけ返して背を向けた。扉に手を掛けて、何となく視線だけ振り返れば、小さく手を振られる。
視線を戻して廊下へと踏み出し、扉を閉める直前に聞こえた声に、一瞬だけ足が止まった。
──おいていかないで、と。
泣きそうな声を遮るように、聞こえないふりをして。閉ざした扉に背を預ければ、自分でも驚くくらいに小さく掠れた声が零れる。
「……おいていくのは、ノインの方じゃないか」
そう、置いていくのは、彼女の方だ。
権力としがらみに呑まれるしかない自分たちを繋ぎ止める、ノインという存在は特別だった。普段は険悪とも呼べる仲でしかないツヴァイとフィアも、ノインの前では険悪な雰囲気など微塵も感じさせない。兄弟にほとんど興味を示さないジーベンでさえ、ノインには優しい。
そんな、兄弟を繋ぐ糸のような彼女は、あまりに儚い。ノインがいなくなったら、きっと自分たちは視線を合わせることすらなくなるだろう。
今さら仲良くなりたいとは思わない。いつか切れてなくなる繋がりなど、最初から欲しくはなかっただけ。
いっそのこと、自分がノインのように明日をも知れない存在だったのなら──誰かに愛して貰えたのだろうか。
「……馬鹿みたいだ」
今、顔を上げたら泣いてしまう。
そんな感覚に、ただじっと足元を見つめながら、暗くなる廊下に立ち竦んでいた。
fin.
2018/06/25
