絵画と籠の鳥
夕日で橙色に染められた、放課後の美術室。無造作に立て掛けられたキャンバスの前で、アインスは長いこと立ち止まっていた。
──いや、立ち止まっているのではない。動けないのだ。
描かれているのは、一本の樹。何処かで見たことのあるような、名前も知らない綺麗な花。それは画面に溢れる光の色に染められながらも、白く繊細な花弁なのだとはっきりわかる。見たことのない景色のはずなのに、何処か懐かしささえ覚える風景に、無意識に感嘆の息がもれる。
「もしかして、気に入ってくれた?」
直後、背後から掛けられた声に、心臓が跳ねる。努めて平静に、ゆっくりと振り返れば、立っていたのは魔術科教師のエドゥアルトだった。
彼が美術室や音楽室に入り浸っていることは、さほど周りに関心のないアインスの耳にも入っていた。一人きりの時間に、不躾に介入されたことを悪くは思わない。静かに背後へ立たれたことは多少不愉快であったが、わざわざ腹を立てるほど、アインスも子供ではなかった。
「気に入ったというか……綺麗な絵だと、思いまして」
「ありがとう、嬉しいな」
「この絵は、先生が描かれたのですね」
少し照れたように礼を口にしたエドゥアルトに、驚くと同時に納得する。姿こそ知られてはいないが、彼の名前は祖国でも有名だ。伝統あるクラネルト皇国において皇室の外で育った異例の皇子、というだけではない。音楽や芸術の分野の評論家が口を揃えて賞賛し、富豪たちは数少ない彼の作品をこぞって買い求める。
アインスも皇族として芸術に多少の知識はあるものの、わざわざ所有したいという心情までは理解できずにいたが、いざ実物を目にすれば手元に置いておきたい気持ちが少しだけわかる。彼の作品を観衆の一人としてではなく、自分の所有物として静かに眺めることは、何にも代え難い時間になるのかも知れない。
「それ、置くところに困らないなら、あげるよ」
まるで思考が伝わったかのようなエドゥアルトの唐突な申し出に、アインスは眉をひそめる。公平性の高い学院において、自分は皇族である前に生徒だ。教師である彼から、絵画を譲り受ける理由がない。
困惑するアインスに、勘違いだったら申し訳ないんだけど、とエドゥアルトは口を開く。
「なんだか、とても気に入ってくれたみたいだから」
それは、あまりに単純な理由で、アインスは目を瞬かせる。同時に、平民育ちであるエドゥアルトの純朴さを実感して、思わずくすりと笑みがこぼれた。
「そのように簡単に譲ってしまわれて、よろしいのですか? それなりのところに出せば、相応の評価も値段もつくでしょうに」
「そう? でも、オレは教師であって絵描きじゃないからね」
教師であって、絵描きではない。
何気なく彼が口にしたその言葉は、なんて自由な発言だろうか。皇族という立場は同じはずなのに、国が違うだけでこんなにも違うものなのか。なんて──なんて、羨ましい。
胸中をよぎったそんな思いを、閉じ込めるように、アインスは目を閉じる。
「……譲られるのであれば、どうぞ別の方に差し上げてくださいな」
きっと自分は絵を見る度に、自由な彼のことを思い出す。羨んでしまう。妬んでしまう。そして諦めたはずの自由は、酷く優しく自分の心を揺らすだろう。
「私よりもずっと大切にしてくださる方が、きっと、いらっしゃるでしょうから。お気持ちだけ、いただいておきます」
自分には、この優しい景色ですら、純粋な心で愛でることなど出来そうにないから。困ったように微笑む彼に一礼して、振り返ることなく、美術室を後にした。
悲観はしていない。ただ、諦めている。
皇族としての限られた選択肢の中で、望んだ役割を演じられなくなった今、自分の価値は周りの求めるままに在る。生まれながらの身分という理不尽な責任に、抗うことは許されない。少なくとも、自分の生まれた国では。
──鳥籠の扉は、今日も開かない。
fin.
2019/01/19
