神の涙で満ちた箱庭



学舎の嬉遊曲


 大きな窓から光が差し込む明るい音楽室で、ピアノに向かい、旋律を奏でる人物がひとり。
 流れるような動作で鍵盤に指を滑らせていたエドゥアルトは、ふいに耳へと届いた楽器以外の音に手を止めた。顔を上げれば、扉に手をかけたままの学院長──パリスツェラと目が合う。

「あ、院長先生」

 こんにちは、と挨拶をすれば、落ち着いた微笑みと共に挨拶を返される。

「こんにちは、お邪魔してしまいましたね」

「いいえ」

 謝るパリスツェラに首を振り、鍵盤にのせたままだった手を膝へと下ろした。エドゥアルトに近付いたパリスツェラは、どこか懐かしむようにピアノを撫で、そして首を傾げる。

「アルト先生は、よく音楽室にいますよね」

「あー……そうですね。つい癖で」

 音楽室に入り浸るのは、学生時代から続く癖のようなものだ。軽い防音が施された教室の中には、外の喧騒も中途半端にしか届かない。様々な楽器の香りが混ざった独特の匂いも相俟って、この空間だけが隔離されたような錯覚に陥る。その感覚が、エドゥアルトは好きだった。
 しかし、現在のエドゥアルトの立場は教師であり、授業がなかったとはいえ勤務時間中。本来なら職員室にいるべきで、音楽室で呑気にピアノを弾いていていいはずはない。
 自分が悪いのはわかっているので、特に言い訳をすることもなく、素直に認めてしまうことにする。パリスツェラも元から注意する気などなかったのだろう、微笑を深くしただけで、何も言ってはこなかった。
 ある程度の自由を認めてくれるこの人の姿勢は、学生の頃から好きだ。行動を制限されないからこそ、弁えようという気になる。

「そういえば、先生はオレに何か用事でした?」

 足を運ばせてしまったのなら悪いことをした。そうパリスツェラに訊ねれば、首を横に振られる。

「いえ、通りかかっただけですよ。しかし、そうですね……」

 考えるように口元へと手をやるパリスツェラに、今度はエドゥアルトが首を傾げた。

「今年の音楽祭で、何か演奏してくれませんか?」

「はい?」

「去年の音楽祭では、音楽室でピアノを弾いたと聞きましたよ」

 パリスツェラ言われて、去年の音楽祭のことを思い出す。授業を受け持っていた生徒にせがまれて、この場所で何曲かピアノの演奏をした──かも知れない。生徒のリクエストで演奏することは、もはや日常茶飯事なので、弾いたのがピアノだったかまでは定かでないが。

「アルト先生の演奏は、生徒たちに好評ですから。予定がないようでしたら、今年は講堂の方で弾いて頂けないかと……それとも、既に予定が入ってしまっているでしょうか?」

 エドゥアルトの祖国が行事を盛大に行なうことはエルドラでも有名だ。現に、本人の意思とは裏腹に音楽家として名が知れているエドゥアルトの元には、父親である国王から音楽祭に行なわれる王城での演奏会に出席するようにとの手紙がきている。尤も去年は仮病を使ってすっぽかしたのだが。
 気を使って訊ねるパリスツェラに、エドゥアルトは困ったように笑う。

「やだなぁ、先生。オレ、音楽家じゃなくて教師ですよ?」

 言いながら、ピアノの鍵盤に布をかけた。楽譜と一緒に立てかけていた教科書を手にして、蓋をおろす。
 そして、再度、パリスツェラを仰ぎ見て。

「生徒が喜ぶのなら、学校で弾くに決まってるじゃないですか」

 当然でしょう、と立ち上がったエドゥアルト。そんな彼の姿に、パリスツェラは柔らかく微笑む。

「そうですね、愚問でした」

 うっかりです、と肩をすくめてみせる学院長に、エドゥアルトも笑顔を見せる。時計を確認すると、口を開いた。

「じゃあ、先生。次の時間に授業があるので、オレはこれで」

「はい、頑張って下さいね」

 笑顔でエドゥアルトを見送れば、部屋にはパリスツェラだけが残される。

 明るい光が差し込む、静寂をたたえた音楽室。黒いピアノに手を当てて、パリスツェラは目を閉じた。暫くの間佇んで、ふと、微笑んで手を離す。
 最後に部屋全体を見回して、音楽室を後にした。



 ──自分の生んだ学び舎に、嬉しい記憶が、またひとつ。





fin.
2012/05/20:公開
2019/05/18:加筆・修正

thanks!!


⇒パリスツェラ(翡奈月あみ さま)

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