今や遅しと



天花の沈黙


 八代が部屋に入ってから、どれほどの時間が流れただろうか。青かった空はとうの昔に橙色に染め上げられ、既に紫色に滲んでいる。
 段々と暗くなる部屋の中。剣山を前に瞑目する兄は、微動だにしない。

「……六花兄さま?」

 八代が控えめに呼び掛けてみるも、案の定、返事はなかった。
 この様子では夕飯を摂りにも行かないだろう。身体に悪いと散々周りに注意を受けているはずだが、六花に優先順位を変える気はないらしい。
 普段ならば諫める八代だが、波風立たぬ水面のような空気を纏う兄に、声を掛ける以上の行動は起こさなかった。何より、この状況で下手に集中力を切らせれば、滅多に怒るということをしない兄の機嫌を損ねることを知っている。

『百の誇りと鬼を背負い、一切の妥協を赦すべからず』

 跡取りである六花は、そんな百鬼の教えを体現したような人間だ。
 そもそも、百鬼の反欧化姿勢が強くなったのは、時代が平世に移ってからのこと。百鬼が守るべきは、己が技術と誇りのみ。元来、欧化に対する問題になど、興味も関心もなかったのである。
 己れの技術と誇りにのみ執着を見せ、周りに一切の関心を示さない。
 そんな六花の姿勢は、百鬼の本質に最も近い。そんな兄が当主となれば、百鬼は再び大和と桜花の抗争から遠ざかるだろう。

 ──それが良いのか悪いのか。

 視線の先で、六花は何も語らない。
 答えのない問いを胸に抱いて、八代は静かに息を吐いた。





〈了〉
2012/07/20

今や遅しと
七つの水槽