今や遅しと



籠の鳥


 ある日の放課後、芸能科の実技教室。
 手入れの行き届いた畳の上で、邑楽 藤雛は参内丸 透と向かい合っていた。
 完全に腰を落として座り込んでいる藤雛に対し、綺麗な姿勢で正座をする透。そんな彼と視線を合わせるとなれば、藤雛は必然的に透を見上げる形になる。
 しかし真っ向から見据えることなど出来るはずもなく、藤雛が見ているのは斜め下。透の手元だった。

「邑楽先生」

「は、はい……」

 名前を呼ばれて、ようやく顔を上げる。さすがに会話をするときに顔を見ないのは失礼にあたるだろう。
 おずおずと自分を見上げた藤雛と視線が合うのを待って、透は口を開いた。

「人生は予想外のことが起きてこそ、とは稀に聞きますが」

 言いながら、顔にかかる長い髪を綺麗な所作で耳にかける。そこで一旦言葉を切り、にっこりと微笑んだ。

「まさか顔を見て腰を抜かされる日が来るとは思いませんでしたよ」

「も……申し訳ありません」

 風がゆるやかに抜けていく教室で、藤雛は透を前にして座っているのではなく──立てないのであった。



 事の起こりはつい先刻。
 教室に一人きりだった藤雛は、静かに畳の上に足を滑らせていた。伴奏のない中、小さく歌を口ずさみながら、己れの動きを確認するようにゆっくりと。
 暫くして、足を止めた時に、ふと耳に届いた衣擦れの音。ぱっと振り返れば、教室の入口付近で腕を組み、此方を眺める透が居た。

「……さ、参内丸先生?」

 動きに集中していたせいで、扉の音にすら全く気が付かなかった。
 呆ける藤雛に、透は微笑む。

「申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」

「いえ……構いません、けど。……あの、いつから……?」

 状況を把握しつつある藤雛が恐る恐る問えば、聞きたくなかった答えが間を空けずに返ってくる。

「そうですね。比較的、最初の方から」

 そう告げられた瞬間、湧き上がったのは焦りと羞恥。
 普段から他人と距離を置くせいか、藤雛は滅多に大きく感情を揺らさない。それ故か否か、驚きからその場にへたりこみ──そして、現在に至る。

 誰もいないと思い込んでいた藤雛が舞ったのは、練習中の不完全な舞。自分でも納得出来るとは言い難い出来のそれを、よりによって旧家の血を引き、能を継承する透に見られていたなんて。
 恥ずかしさから今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、足に力が入らないためそれは叶わない。せめて距離を取りたいと、後ろ手に突いた腕に力を込めて、少しだけ後ずさってみる。
 そんな藤雛の行動をどう受け取ったのか、透は静かに首を傾けた。

「邑楽先生、やはり保健室に行かれた方が良いのでは……」

 お連れしますよ? と申し出る透に、藤雛は控え目に首を横に振る。自分ごときが透の手を煩わせるわけにはいかない。

「いえ……あの、お気になさらず……」

「別に遠慮しなくても。大丈夫ですよ、男が女性のひとりくらい抱き上げられなくてどうします?」

「抱……っ…し、してません!遠慮していませんから……!」

「まぁ、そうおっしゃらずに」

 そう、笑顔で距離を詰めてくる透。あまりの状況に頭の回転が追い付かず、藤雛は慌てることしか出来ない。
 先程よりも至近距離にある透の顔。ぱっと見だけでも驚くほどに綺麗なそれを直視することなど出来なくて、最終的に透から顔を背ける形になってしまう。
 ──と、耳に届いた小さな嘆息。

「そこまで頑なに拒否されると流石に……面白くありませんね」

「え? あ、あの……申し訳ありませ……」

 気を悪くさせてしまったかと戸惑いながら、何度目かになる謝罪の言葉を口にする藤雛。
 反射的に再び透へと顔を向ければ、肩を引かれた。逃げるように反らせていた身体は必然的に前傾姿勢へと変わり、更に透との距離が近くなる。

「聞きたいのは、謝罪の言葉ではありませんよ」

 藤雛の耳に入るのは、さして大きくもないはずの透の声のみ。再び下がった視線を上へと促すかのように、するりと頬を撫でられる。

「保健室までお連れしても?」

 風と共に流れるはずの外の喧騒すら塗り変えられた、静かな空間。
 そう耳元で囁かれて。

「………は、い」

 誘われるように、小さく頷いた。





〈了〉
2012/10/07

thanks!!


⇒ 参内丸 透(木陰 さま)

今や遅しと
七つの水槽