読書日和に言の葉の魔法を
新芽の匂いが漂い出す、この季節特有の緩やかな空気の中。木陰に座って本を開きながら、榊織 慈は一人平和な時間を過ごしていた。
そよぐ風は穏やかで、降り注ぐ陽射しは暖かい。そんな絶好の読書日和の中、ふいに、がさり──と。
唐突に頭上から聞こえた音に、慈は反射的に顔を上げる。
「え? ……って、うわぁ!?」
視界に飛び込んできた薄茶色の物体に、反射的に身をすくませた。引っ込めた足のすぐ傍に降ってきたそれに。
「ね……ねこ?」
思わず見たままを口にすれば、足元の仔猫は応えるかのように鳴く。そのままちょこちょこと駆け出す仔猫を目で追えば、行きつく先には黒い革靴。
存外、近くにある他人の存在に驚いて、慈は再び顔を上げた。
「青蓮寺……くん」
「ん?」
目に映った見知った姿に、思わず相手の名前を口にする。立っていたのは慈の年下の同級生──青蓮寺 澄。
仔猫に気を取られていたのか、澄は名前を呼ばれて初めて慈の存在に気が付いたようだった。次いで、少し考えるように首を傾げる。
「あぁ、榊織の」
「こ、こんにちは……」
最近、異国から帰化したばかりだという編入生の彼は、未だに周りの人間の顔と名前が一致しないらしい。それでも慈の名前が出てきたのは、やはり旧家の人間だからか。
自分の背負う名前の大きさを改めて感じて、慈は息を吐く。
そんな慈の様子を澄はどう捉えたのか、座ったままの彼に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「こいつが驚かせた。悪かったな」
そう、足にじゃれつく仔猫を抱き上げる澄。仔猫の首につけられた鈴が、ちりん、と軽やかな音をたてた。
青い瞳にまっすぐ見据えられれば、見返すことの出来ない慈の視線は自然と下がる形になる。
「あ、いや……その……」
気にしていない、と。
たった一言なのに、他人を前にすると上手く口から出てこない。頭の中だと形になるのに、言葉としては不完全だ。必死で口を開いても無意味な音にしか成り得なくて、最終的に口に出来たのは。
「……ごめんな、さい」
謝罪の言葉は、わりとすんなり口から出る。そんな自分に情けなさを覚えて、慈は再度ため息を吐く。
対する澄は至極不思議そうに慈に聞き返した。
「何を謝るんだ?」
「え? そ、それは……えっと……」
思わぬ切り返しに焦って、再び無意味な言葉を発する慈。そんな彼に澄は、可笑しな奴だな、と笑いかけ、慈と向かい合ったそのままの位置に腰を下ろした。
「………」
澄が腰を下ろしてから数分。
仔猫の鳴き声と鈴の音だけが空気を揺らしている。当然、会話はない。
慈の心境としては、正直、静かすぎて居たたまれない。気持ち的には今すぐ逃げ出したいくらいだ。しかし、澄の気分を害してしまうかも知れないことに気兼ねして、立ち去るに立ち去れない。
あまりの気まずさに落ち着かない慈は、膝の上の本を無意味に撫でた。
「慈は」
「は、はいっ!?」
唐突に耳に入ってきた声と、名前を呼ばれたことに驚いて、思わず声が裏返った。その事実に更に慌てる慈に、声をかけてきた澄はくすりと笑う。
「……慈は、本好き?」
改めて澄が口にした疑問。その内容に慈は少し戸惑って、それでもはっきり首を縦に振った。
「本は、好きです……色んな自分になれる、から」
そんな呟きと共に、手元の本に落とされる慈の視線。つられるように、澄の視線も本へと注がれる。
「何を読んでるんだ?」
興味を引かれたのか、身を乗り出して手元を覗き込んでくる澄。彼が見やすいように本の向きを変えながら、慈は内心首を傾げた。
慈が手にしているのは自国の古典。大々的に有名とまではいかないが、知っている人も多いのだが。
「えと……知らない?」
「倭国の本は、あまり見たことがない」
そう答えながら表紙をめくり、澄は冒頭に目を通す。興味深そうに活字を追う澄を見て、慈の口からある提案がついて出た。
「……貸そうか?」
直後、澄にきょとんとした顔を向けられて、慈は自分が言葉を発したことに初めて気が付く。
「あ、その……よ、よかったら」
驚きと焦りとでいっぱいいっぱいな心境を誤魔化すように付け加えて、控えめに本を差し出してみる。
「でも、慈が読んでる」
「何回も読んでる、から……」
大丈夫だと言えば、澄は素直に差し出された本を受け取る。軽く微笑んだ彼が、直後に口にした単語は慈の知らない異国の言葉だったけれど、何となく。
ありがとう、と。
そう言われたのだと確信する。
ストレートに告げられる感謝の言葉に慣れない慈は、少し照れくさくなって視線を逸らしてしまったけれど。
それでも小さく、嬉しそうに笑った。
〈了〉
2012/05/19
thanks!!
⇒ 榊織 慈(さきん さま)