今や遅しと



風紀検査と朝のひととき


 平行線をたどる──というのは、このような状況を言うのだろう。
 大和学園工業科の教師である氷上 華祿は、目の前で繰り返される言葉の応酬に一人納得していた。

「ほら、校則に『制服着用を義務付ける』としか書いてないじゃないですか」

「筑砂くんは一から十まで書かれないとわからないんですか?」

「でも、学校の決まりには則ってるわけだし、問題ないと思いまーす」

「ないはずないでしょう!?」

 朝からそんなやり取りを華祿の前で交わすのは、普通科教師である浅丘 千和と工業科生徒である筑砂 羽衣。
 二人はかれこれ十数分の間、何の進展もない似たような会話を続けていた。尤も、真剣なのは千和だけで、羽衣は適当に受け流している感じが否めない。
 しかし、流石の彼も、千和の長いお説教に辟易した様子を見せ始めていた。

「屁理屈言っていないで、常識的に考えて下さい!」

「えー……」

 ぴしゃりと言い切る千和から視線を逸らした羽衣は、彼女の肩越しに静観する華祿へと視線を投げかける。すがるような視線を受けて、華祿はただ黙って肩をすくめた。
 そもそも、事の発端は女装をしている羽衣にある。尤も、現在進行形で行われている風紀検査の担当教員に千和が含まれていたことも要因だろうが。
 同じく今朝の風紀検査担当となっていた華祿としては、生徒に口うるさいことを言いたくない……というのが本音だ。男子生徒が女子制服を着用していたところで何の弊害もない気もする。
 しかし、真面目な千和にその考えは通用せず、登校してきた羽衣を目敏く見つけるなり説教を始め、現在に至っていた。

「浅丘先生」

 助けを求める羽衣の視線に加えて、時計が始業時間の五分前を示したことで、華祿は漸く二人の間に口を挟んだ。
 静観に徹していた華祿に呼ばれて、怪訝そうに振り返る千和。彼女の視線が外れた瞬間、羽衣は華祿の背後に隠れるように──というか、華祿を盾に隠れた。逃げ出さなかったのは、怒られている原因が自分の服装にあると自覚しているからか。

「こら、筑砂くん!まだお説教は終わってませんよ!」

「いや、もう勘弁!」

 羽衣の移動によって、二人に挟まれる形となった華祿。千和の険しい顔を目の前で眺めていると、自分が睨まれている錯覚に陥りそうになる。
 早々に、宥めるように声をかけた。

「浅丘先生。もうすぐ始業時間ですし、今日はこのくらいで。それに筑砂は工業科の生徒ですから」

 後は私が、と続ける華祿に、千和は少し納得のいかないという風情を見せる。それでも、始業時間が迫っているせいか、最終的に首を縦に振った。

「……次に見つけたら、またお説教ですからね!」

 最後に羽衣へと言葉を投げかけて、千和は校舎へと踵を返す。几帳面な彼女は、きちんと時間までに教室へ向かうのだろう。
 遠ざかっていく千和を、感心したように見送る華祿。そんな彼の前へと回った羽衣が、両手を合わせる。

「ありがと華祿さん、助かったー。千和ちゃん、話長いんだもの」

 外見に見合った口調で礼を言い、そして首を傾げた。

「で、次は氷上先生がお説教すんの?」

 一変して素で発せられた問いかけに、今度は華祿が首を傾ける。少し考えるように間を置いて、首を振った。

「……いや。学則に書いていないんだろう?」

「全然、まったく!」

「それなら、私は構わない」

 断言する羽衣にそう頷き、続ける。

「……が、浅丘先生の前では気をつけなさい」

 校則を基準とするならば羽衣の言い分にも筋は通るが、常識を基準とするならば千和が正しい。こうして見過ごすことは出来ても、あからさまに庇うことは難しいのだ。
 千和の長い説教を思い返して小さく息を吐いた華祿に、羽衣は楽し気に笑う。

「華祿さんに見放されない程度には自重しとくよ」

「そうしてくれ」

 はいはい、と羽衣が調子よく返事をすれば、丁度よく始業のチャイムが鳴り響いた。

「げ、遅刻……!?」

 先程までの飄々とした態度を一変させ、慌てたように時計を確認する羽衣。そんな彼に、再び救いの手が差し伸べられる。

「運が良かったな、筑砂。一限目は私の授業だ」

「え、マジ? さすが華祿さん……!」

 助かったー、と胸を撫で下ろす羽衣の背に手を当てて、告げる。

「五分ほど遅れる。先に行きなさい」

「りょーかい、先生」

 急かすように軽く押せば、駆け出す羽衣。その背中を見送りながら、華祿は僅かに目を細める。
 教え子の姿が昇降口へ消えるのを見届けて、ゆっくり校舎へと足を踏み出した。





〈了〉
2012/06/26

thanks!!


⇒ 筑砂 羽衣(閏宮 さま)

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