この感情の名前は


最初に目覚めた時、俺は一瞬でここが自分たちがいた場所とは違うと知った。塩水の匂いも波の音もしないのだ。
ここがどこかも分からない。知らないものが沢山あり四方八方壁に阻まれ閉じ込められているようだ。
一つだけ安心したのは、ここにいるのが自分だけではないということ。重もいるということは驚いたし焦ったが、兄貴たちがいたことで安心した。もし一人だけだったら、きっと狂っていたかもしれない。それほどここは俺が今まで見たことがあるものとは何もかもが違っていた。


この家の家主は、いきなり襲った蜉蝣の兄貴にも突然現れていた俺たちにも何の躊躇いもなく一夜の宿をくれた。ゆっくり考えればいい、と。だからひとまずは安心してこれからを考えられた。

「………俺達には、生きていくには難しいだろ」

結論は、ここ以外では生きていけないということだった。
それはこの家の中を見ても、窓から見える外の風景を見ても分かること。それでも、ならばどう生きるのか。そんなもの、あの人にお願いするしかない。出会いは最悪のもの。それでもあの人しか頼れる人はいないのだ。

そんな決死の思いで懇願すれば、あの人は拍子抜けするほど簡単に了承してしまった。そこで俺が最初に抱いたのは、感謝でも安心でもなく。疑問だった。
なぜこの人はこんなにも簡単に了承したのか。なぜ、自分を襲った得体の知れないものを簡単にそばに置けるのか。
しかしそんな思いも重が自分から名乗ったことで一旦はなくなった。そんな疑問等よりも、重が名乗ったことに疑問しか浮かべなかったあの人に驚いたからだ。普通、名前を教えられれば自己紹介だと思うだろうし自分の名前を返すはずだ。しかしあの人は何故重が名乗ったのか分かっていないふうだった。

食事を食べないということでまたぶつかった。鬼蜘蛛丸の兄貴の叱咤からあの人があまり食べないということを知り、蜉蝣の兄貴が手を伸ばした。そこで、あの人も何でもない風でいて無意識のうちに恐れていたことを知った。それでも俺達が罪悪感にかられないように言葉を紡ぎ、最後にはゴリ押しで兄貴を説き伏せてしまうのだから呆気に取られてしまった。だけどそれ以上に重が懐いていて驚いた。いつのまにそこまで懐いたのか。
少し、ほんの少しだけ、あの人を知った。そしたらもっと知りたくなった。あの人の行動は見ていて予想がつかない。だからあの人自身の口から、その真意を知りたいと思った。

しょっぴんぐもーるという場所に行った。そこでは人がとんでもなく多くて、ついそばに居る兄貴の袖を掴む。
履物を買った後に重がはぐれてしまった。人に流され遠くにいる重を見つけた瞬間に頭が真っ白になり、体が硬直する。このまま離れたら、もう二度と会えなくなるんじゃないか。そんな思いが駆け巡り、重を追うように体が動いた。しかしそれよりもはやくあの人が動き出し、その背中は雑踏の中に紛れ込んでしまった。
あの人の残した言葉は正論で、俺達が追っていってもまた合流できる保証はない。むしろ出来ないと言っていい。だから俺たちにできることはただ待つことだけだが、それが歯がゆくて仕方がない。

少しすると、知らない女が話しかけてきた。兄貴たちは男前だ。顔の傷さえも魅力の一つとしてしまうだろうし、自慢じゃないが俺も顔は整っている方だと自覚している。だから女達が放っておかないというのは分かるが、それにしたって女の方から話しかけしかもこちらがあきらかな拒絶を示しているのに引かないというのは、不愉快なものだった。兄貴たちはここで大事にすればあの人に迷惑がかかると分かっているので、比較的穏便に事を収めようとしているが、女達は一切取り合わず己の身勝手なことばかり言っている。俺は兄貴たちと違ってそんなふうに大人な対応なんて出来るはずもなく、相手をしたくなくて目をそらしていた。
そんな時だ。集ってくる女達の向こう側に重を抱いたあの人がいた。
よかった。あの人は言った通りに重を連れ戻してきてくれたんだ。そう安心したのは束の間。あの人は重に何かを言い、重が笑顔で頷いた後、なんと踵を返そうとしたのだ。

その時に湧き出た感情は何なのか。
ただ、背中を向けようとしたあの人に、"置いていかれる"と。そう思って。みっともなくその背中を引き止めたいと思ってしまった。


***

モヤモヤとした感情はずっと残ったまま。それでもあの人は俺達に着物を買ってくれた。自分たちは少ない枚数でもよかったのに、渋々といった様子で諦めるあの人はもっと買い与えようとしたのだ。
あの人に対する感情がわからない。あの人が何を考えているのかわからない。俺はあまり頭がいいほうじゃない。だから、重も兄貴達も席を外した時にチャンスだと思ったんだ。
だけど何を言えばいいか分からない。元々話すのが得意なほうじゃないことも相まって探り探りで言葉を重ねても、あの人が言葉を返してくれても、モヤモヤとした感情はなくならない。この人の真意が、分からない。

「君達はこの世界に放り出されたら生きてはいけない。それは私も承知しているよ。だから家に置くことにした。そして、置く上で必要なものを揃える。それに何か特別な意味っているかな?」

だけど、それでもあの人は真摯になって俺に言葉を投げかけてくれた。自分が納得するように言葉を選びながら。

「う〜ん。何て言えば君に伝わるかな?君達みたいな子供を放り出して野垂れ死にされるのが嫌で、だから頷いて………うん。そうだね。君達を置いたのは私のエゴだよ」

俺にもキチンと伝わるように。脚色も誤魔化しもせず、ただ己の気持ちをそのまま言葉にするように。

「君達を放り出すのは簡単だよ。でも、その後に君達が死んでしまったら?酷い目にあったら?そしたら最初に手を差し伸べられたのに放り出した私の目覚めが悪い。だから君達を家に置くことにして、何も揃えないのなら私の罪悪感が膨らんでしまうから生活必需品を揃えた。君達を家に置くのも、物を買い与えるのも。私の罪悪感をなくすための自己満足だよ」

それは思いの外意外な答えで、驚いた。それと同時に、あの人はとても、とても綺麗に笑いながら言うものだから、俺は呆けてしまった。だってそうだ。助けてもらっているのは俺達で。迷惑をかけているのは俺達で。あの人が俺達を見捨てても誰も非難なんてしないし、むしろそれが普通の反応だ。なのにあの人は俺達に手を差し伸べてくれて着るものも食べるものも与えてくれた。それが全て自己満足の一言で片付けてしまったんだ。
するとあの人は何を思ったのか俺の頭を撫でてきて、驚いたが、不思議と嫌な感じはしなかった。

「会ってまだ何日と経っていない私を信用できるはずがないし、信用しろとも言わない。だけど、私が君達を養う上で君達が罪悪感を感じる必要はないんだよ。信用も、信頼も。簡単には出来ないよ。それでも、ここにいる間は責任をもって養うから。だから、君もまだ12歳の子供なんだから。泣きたい時は泣けばいいし、言いたいことがあるのなら我慢しないでほしいな」

その言葉で、俺は自分が思っているよりも不安がっていたことにようやく気がついた。あの人を、俺達を助けてくれたあの人を信用していないことも。あの人は気がついていた。
重がいるから、俺が不安を与えるわけにはいかない。歳なんて関係なく、俺は兵庫水軍の一員だ。そんなことが体にまとわりついていた。それでも会って何日も経っていない赤の他人を前にして泣くなんて有り得ない。
なのに。あの人が優しそうに笑いながら、慈しむかのような手つきで俺の髪を撫でるから。だから、気がついた時には涙が溢れてきて、それを止める術なんて俺は知らなかった。

涙を流す事に、不安がなくなるようだった。あの人に髪を撫でてもらう度に、モヤモヤとした気持ちがなくなっていった。

「楓、さん」

名前を呼んでもいいかなんて、なぜ聞いたのから分からない。それでも、口にした名前はストンっと胸に落ちてきて、言葉にする度に胸が暖かくなった。

この胸に広がる感情の名前を、俺はまだつけられない。

ALICE+