「うわぁぁぁあああ!!」 悲鳴を上げる行商人の前に現れたのは僅かに黄色がかった毛の、2メートルを超える巨大な狼男だった。尖った口からは巨大な牙が何本も並び、開ききって少しも動かない瞳孔からは理性を読み取ることはできそうにない。そして厚い胸板と両手の爪を見るに、一撃でも受ければ致命傷になりかねないだろう。 「カオリさん! 気をつけて! それはおそらくラヴィッジウルフです」 ソフィアの声が後ろから響いてくる。名前なんてどうでもいい。相手が強敵だということは火を見るより明らかである。これまでに見たどのモンスターよりも凶暴で、圧倒的な力をもっていることも。 「ゴオオオオオ!」 威圧的な咆哮が一帯を駆け抜ける。草むらがざわめくように揺れて波立った。 羈絏を放って逃げようとする男は荷台から足を踏み外して転げ落ちた。ラヴィッジウルフ側に落ちなかったのがせめてもの幸いである。 馬はその場で動きを止めたまま。しかし狼男は行商人を狙って追いかけてくる。 「グァァアアアアア!」 「うわぁーっ。助けてくれぇ!」 恐怖に歪んだ小柄な男の顔。 ソフィアが矢を射て応戦するが、男が邪魔で狙いが定まらない。1発目を外し、2発目をなんとか肩口に突き立てることに成功するが、ラヴィッジウルフは痛みで空を仰いだだけだった。そして次の瞬間には矢を自分の手で引き抜こうとする。しかし不器用なためか矢は抜けずにへし折れてしまった。 男が這々(ほうほう)の体(てい)で森の入り口までたどり着いた。代わりにカオリが駆け出す。 剣を握った手に汗が滲んでいる。 ふたりだけで勝てるのか? 本当を言えば怖くて堪らなかった。だが自分には植物を操る力がある。勝てなくても身を守るぐらいのことはできるはずだ。 カオリの右の掌が白く光る。 「ヴァインシュート!」 掌から植物の蔓が現れてラヴィッジウルフの右の手首を絡め取る。がっちりと手首の回りを回転するとそのまま首へと蔓が伸びていき、首と右腕を固定してしまった。 しかし……。 「グァァアアアアア!」 ラヴィッジウルフは雄叫びとともに広げた右腕で蔓を引きちぎった。蔓は脆く、まるで効果がない。 カオリ自身の熟練度の低さもあるが、相手との腕力差は如何(いかん)ともし難い。 「小癪な真似を」と言わんばかりにカオリに狙いが向けられる。周りを巻き込まないためにカオリは左前へと駆け出して相手を待ち構える。 誘いに乗ったラヴィッジウルフはカオリへと体を向けた。 そして爪を尖らせた右腕が振り下ろされる。カオリはロングソードで難なく受け止めた。しかし問題はその後だった。 一瞬地震が起こったのかと思った。 相手の腕を止めているはずの剣がだんだんと地面へと沈んでいく。剣を支える両手はがくがくと揺れ、今にも刀身とともに砕け散りそうだった。 一体どんな魔力が加わればそんな力が生み出されるのか。痩せ型で女性のなかでも筋力センスがない部類のカオリでは、まるで太刀打ちできなかった。 剣も耐えているがカオリともども地面に沈み込んでいきそうである。 強過ぎる……。ラヴィッジウルフの眼光と迫る開口の迫力に心まで押しつぶされそうだ。 鋒が反り返り、今にも罅(ひび)が入りかねない。 「……なんて力なのっ……」 このままじゃやられる! 「カオリさん!」 ソフィアの再び放った矢がカオリの頭上を抜けて狼男の胸元に突き刺さる。ラヴィッジウルフは痛みに怒りを爆発させる。悶えるように吠え散らかしているが、筋肉の発達した胸元のせいか倒れることはなかった。 今だ! 隙を突いてカオリは剣を構える。そのまま腹部を貫こうとするが、怒りの蹴撃がカオリの体を突き飛ばした。 「きゃあっ!」 腹部に感じる鈍い痛み。 膝蹴りの勢いでカオリは宙を舞った。そのまま草むらへと落下していく。 衝撃と全身の痛み。体に塗(まみ)れる土と草の匂い。カオリは呼吸が定まらず喘鳴とともに咳き込んだ。擦りむいた裸の膝が血を出している。 もう少しだったのに。 カオリは立ち上がると再び剣を構えた。 逃げるべき? カオリはふたりを振り返る。ソフィアはなんとか恐怖に負けまいと弓を構えて応戦の姿勢だ。行商の男は驚いて腰を抜かしている。 どのみちあの身体能力が相手では逃げ切ることはできないだろう。カオリだけなら木に変身することも可能だが、目の前で変身しては隠れる意味はない。そのまま薙ぎ倒されるのがオチだ。 やはりこれまでのどのモンスターよりも桁違いに強い。勝機はないのだろうか? しかし考える時間すらも与えてはくれなかった。 ラヴィッジウルフは再び大きな雄叫びを上げる。怒髪天を衝くような形相にソフィアは番えた矢を落としてしまう。この雄叫びには相手を恐怖させる力があるのだろうか。 カオリはなんとか自身を奮起させる。しかし厳密には正気を保っているだけで限界だった。 剣の鞘に結んであった木の枝を握り、杖を持つ要領でラヴィッジウルフへ向けて構える。 「お願いっ!」 木の枝は勢いよく伸びていき、ラヴィッジウルフの胸元へ伸びていく。しかし枝が心臓を貫く前に軽々とへし折られてしまった。 これでもダメか。ならドヴァードで……。この距離で盾を巨大化させることはできないけれど、ドヴァードの毒で。 「ダメですカオリさん! ラヴィッジウルフは毒に耐性を持ちます!」 「嘘でしょっ!」 カオリの手が止まる。毒も効かない。無理だ。まだ自分の力ではドリアードのように強力な植物は扱えない。 どうしたらっ……! ラヴィッジウルフは再び両手を広げ、獰猛な口を広げてこちらへ向かってくる。 「逃げてください! カオリさんっ!」 身体が動かない。怯えている。剣を握る手に力が入らない。 死ぬの!? 私、また死ぬの? このままみんないっしょに切り刻まれてしまうのっ……!? ラヴィッジウルフの巨体が迫ってくる。 カオリは恐怖で目を瞑った。しかし大地を蹴る振動は敵が間近まで来ていることを報せてくる。 怖い……。 爪で引き裂かれる自分の体を想像して胸が痛み出す。 もう……ダメ……。お母さん……。 「カオリさぁぁぁぁぁんっ!!」