静かに階段を降りていくダンクスの舌打ちが聞こえた。その理由はなんとなくわかっていた。 背中の傷は武士の恥というが、騎士も敵前逃亡を禁じているものである。この世界の騎士たちはどうなのだろうか? この世界の聖騎士という言葉には所属もあって教条的なニュアンスが強いようだが、マックレアのような一国の騎士であっても、民を守ろうと尽力する部分では行動面で一致している。つまり、かれらも民を残して逃げるようなことはしないはずなのだ。 その事実がダンクスをまごつかせているのは明白だった。王国の騎士とはいえ、マックレアもエレーナもまだ若い。責任感の強いダンクスは騎士すらも守ってやらなければならないと気負っているのだ。 殿(しんがり)に控えるカオリは、板を開いたままで階段を降りきった。予想以上に天井が高い。 カオリは暗がりに灯された燭台の火の列の向こうを見やった。 空っぽの牢獄が続いている。はっきりとは見えないものの、以前の所有者が使わなかったためか、どの囲いもまだ新品同然である。しかし最近まで魔物を収容していたせいかところどころ床面に奇妙な汚れが残っていた。カビた臭いも相俟って筆舌に尽くし難い悪臭がたちこめている。 エレーナが眉間に皺を寄せて露骨に嫌そうな顔をした。「少しぐらい我慢しろ」と呟いたのはマックレア。 もう声の主はすぐそこにいる。儀式の真っ最中なのか聞き慣れない詠唱の文言が響いてきていた。 「この呪文は……。やっぱり召喚が込みだったみたいね。また何か喚び出そうとしてる」 エレーナが溜め息混じりにこぼした。声が聞こえるのはひとりだけである。 暗い通路の最奥部までは見渡せないが、途中で右手に通路が分かれており、そこからおぼろげな光が漏れてきている。儀式の間はその角を曲がった部屋なのだろう。 こちらの臭いを察したのか、そこでディットンズウルフと思しき生物の吠える声が聞こえた。さすがは犬に近い種族だけある。 ディットンズウルフが檻を蹴飛ばしたらしく金属が振動する音が響いてくる。儀式の間への分かれ目の、さらに奥にいるようだ。暗がりに閉じ込められた腹いせか、ところ構わず吠え散らかしている。 「ドマー、ディットンズウルフはもう野に放ちなさい。ラヴィッジウルフが4体いますから、わざわざ一番うるさいものを残しておく必要はないでしょう」 叫ぶような大きな声のため、その会話内容ははっきりと聞き取れた。ラヴィッジウルフが4体? もしかしてあの強力な魔物が奥側にあと4体もいるのだろうか。 足音が聞こえ、男が通路の分かれ道に現れたのがなんとか視認できた。まだこちらの存在には気づいていない。 男は角を曲がり、奥の暗がりに消えていった。 「まずい! 人間相手ならまだしも、あのディットンズウルフには隠れてても嗅覚で見つかっちまうぞ」 全員が退却のために腰を浮かせようとした。しかしどう考えても間に合わない。 牢屋の施錠が外され、扉の開閉が聞こえる。 ここは私がやるしかない。カオリは心のなかでそう呟いた。そして手に持っていたヴァイリーソードをわざと落として大きな音をたてた。 「誰だ!?」 「カオリさんっ!」 暗がりからの誰何(すいか)とソフィアの驚きの声。わざとだと気づいてもらえないのが悲しい。 「あっ、いけない!」 カオリは白々しい台詞を吐き捨てて階段を駆け上ろうとする。 「待て!」 四足歩行の生物が先行して走ってくるのがわかる。カオリはそのタイミングで手のひらに念を込めた。ピンク色の輝きは大きなリュシフォンの花びらに変わり、独特の香りを漂わせ始めた。力を注いだ分、芳香の広がる範囲もスピードも自然のものの比ではない。これには狂化された亜人種であっても抗えないだろうとドリアードも太鼓判を押している。 カオリは階段に片足をのせ、ソフィアらに向いてニコッと微笑むと「作戦通りに隠れてて。うまく巻いてみせるから」と口にした。そして一気に段を駆け上がる。 引き続いてさらなる牢獄が開かれる音。操られたラヴィッジウルフはカオリを狙うよう命令されているはず。仮にリュシフォンが効かなくても仲間に危害を加えることはないはずだ。 さあ来て! 私のフィールドに!