甕の口の隙間から色の濃い煙がもくもくと上空に上がっていく。 驚いた3人が天を見上げると、上空10メートルほどのところで立ち込めた煙が渦を巻き始めた。まるで積乱雲の生成のように巨大な塊が頭上に膨れ上がっていく。 「閉じましょう」 そう言ってソフィアが甕の蓋を塞ごうと手を伸ばした。しかし押さえつけたソフィアの両腕を弾くように、蓋が真横に吹き飛んで甕の完全開放が成ってしまう。まるで心霊現象である。 「これはまずいよな」 デオンが引きつった表情になる。どう考えても封印されていた悪霊が野に放たれる図である。 煙の塊は段々と形状を変え、やがて人型に形どられていく。引き締まった腕、広い肩。それは筋骨隆々な男の上半身を模していた。渦巻く煙に陥没があり、不動明王のように険しい顔つきをしているのがわかる。 周囲に煙と何かが腐敗した臭いを混ぜたような不快な臭気が漂っている。これが悪霊の臭いなのか。 下半身は渦となっており、さながら精霊のジンのようだ。いつか大学の教授が話していたことがある。ジンはアラブ世界に伝わる精霊や妖怪などの総称であり、階級によってイフリートなどの名前で呼ばれることがある。しかしその意味するところは多岐にわたっており、現代でジンと呼ぶ場合は単純に「亡霊」を指すのが一般的らしい。 「やっぱり幽霊ですね。不運にも転生者の持ち物としてこちらの世界に渡ってしまったんです」 幽霊はこの世界にもいるらしい。ならば狭義のジンと呼ぶべき存在はどうなのだろうか? これまでに相対してきた魔物たちは、いずれも元の世界の神話や創作物語に出てくるそれに類似するものばかりだった。そう考えればこの魔人がこちらの世界の存在である可能性はある。だがなぜだろう? この怪物にはシンパシーを感じてしまう。 ジンと思しき魔人は緩やかに向きを変え、カオリに向かって動きを止めた。そしておもむろに両腕を振り上げ、それを振り下ろすと同時に勢いよくこちらへと突進を始めた。口元からくぐもった空気の流れの音がする。 「カオリさんっ!」 「ヴァインシュート!」 カオリの腕から植物の蔓が伸びる。それは魔人の左腕を捉えるべくハイスピードで発射されたが、蔓の先端は煙の塊をすり抜けて空を切った。 「えっ!? 嘘っ!」 幸い蔓は崖際の枯れ木に巻きついて動きを止めたため、カオリはぎりぎりで回避運動に出て灰色の腕を躱した。 竜巻に擦れた芝生が空を舞う。 魔人は大回りで宙を回転すると、これまでよりも高い位置で静止してこちらを睨んでいた。 「カオリ、霊には物理攻撃は通じない。神の祝福やまじないを受けた武器か、あるいは魔法で攻撃しないとダメだ」 そんなどこかのRPGみたいなルールまで律儀に再現されているのか。カオリは溜め息をつきそうになった。 魔人の体が下から上に波打った。両腕が真上にかざされ、両手の間から緑色の光が輝いている。今度は魔法攻撃だ。 しかしこの状況にありながらどこか心に余裕がある。そう、この魔人は動きが鈍いのだ。もともと鈍足(足はない)というよりは、自分の力をうまく発揮できていないようである。 「カオリ、お前は刀は使えるか?」 デオンが叫んだ。見ればデオンが件の包に手をかけている。紐解かれたそれはやはり日本刀。鞘には傷があり、ところどころ錆びてしまっている。 「はい、真剣は使ったことないですが、片手剣よりは慣れています」 それを聞いてデオンが頷いた。そして刀を鞘ごとカオリに向かって放る。格好つけて片手で掴もうとしてそれは地に落ちたが、なんなく拾ってその刀身を光のもとにさらす。 十字の光が広がって世界に消失していく。紫電の輝きではなく、退魔の力が解放されたためだろう。比較的小振りだが重量はなかなかだ。でもやるしかない。 カオリは上段に構えると、鋒を魔人へと向けた。しかし魔人の視線の先にいたのはソフィアである。いつの間にターゲットを変えていたのか。 ソフィアは両手の指を重ね合わせて呪文の詠唱に入っている。メルクマンサの民全員に言えることだが、ソフィアは魔法が得意ではない。むしろ彼女の魔法のセンスは比較的高いぐらいである。しかし魔力の量が相対的に少ないようで、よほど訓練を積まなければ連発することはできないらしい。 ソフィアの両手のまわりに青く美しい輝きが現れて紋章を描いている。それが氷の輪となる前に、カオリは走り出していた。 魔人が放抛(ほうしゃ)した光の玉が空中で数多の白刃に変わりソフィアを襲う。 呼名して注意を引きつけようとしたが、カオリは間一髪でソフィアの前に辿り着き、腰にかけた木の盾を胸元で展開した。 一か八か……。 一瞬で巨大化した木の盾に魔人の鎌鼬が次々と突き刺さる。