ぬかるんだ土。意思の感じられない足音のリズム。それらが歩を進めるにつれ不気味さが色を増してくる。 その足音の主とはなんだろうか。スィメア国民が夜半に歩き回る特別な理由などない。万一夜遊びだとしても、その行動自体無警戒が過ぎるだろう。 こちらが近づいていることにも果たして気づいているのかどうか。 あるいは、こちらの常識の通じないモンスターなのだろうか。だとすれば静観すべきか。あらゆる可能性がアリーファの脳裏を巡っていく。 遠くからマヌガスの嗄れた叫び声が聞こえる。もうくたびれてしまっているのか、喚きに耳をつんざくような不快さは混じっていない。 再び草むらが揺れる。そして常夜の闇を這いずり回るものの怨嗟の呻きが、空間を震わせるような響きでこちらに向かってきた。 「アッ……アァアアガアアァァ……」 地面を震わせる足音も、この低い唸りも、雨風に紛れて聞こえていなかったらしい。 無警戒なのはこちらも同じだったか。アリーファは剣を鞘から抜くと、一気に駆け出して木々の間の広場に出た。 そこにいた者の姿は想像の通りだった。泥に汚れたボロ布をまとい、不自然なほど前屈みになった頭部を緩慢な動作で振り上げると、半身を捻ってこちらを睨みつけてきた。 「タキシムか」 アリーファは小さく呟いた。饐えたような臭いは一瞬でいずこかへ消えてしまう。代わりに土と化していた亡骸の強烈な腐敗臭の残滓が雨粒に乗って拡散していく。長い経年のためにその腐った体は風化しており、臭いは随分とマシな方だと言える。これが最近の遺体を用いたアンデットなら、まともに嗅げば猛烈な死臭に吐き気が止まらないだろう。 蓬髪は雨に濡れてますます見窄らしい。落ち窪んだ眼窩もとうの昔に眼球を失っており、夜の闇よりも深い黒が覗くばかりである。 タキシムの数は3体。全く同じ動作で全員がこちらを向くと、逆三角の陣形でこちらを見据えている。 唐突に現れたゾンビたちには何らかの復讐の念があるのだろうか。もしこちらに攻め入ってくるとすれば教団に恨みをもつものか、いや、ただ生ある存在に憎しみを覚えるのか。 「アァァァァァガァァァァ……」 声にならない声とともに、バラバラのタイミングでタキシムたちは動き出す。 空洞となった目から感情を読み取れるはずもないが、ターゲットは間違いなくアリーファである。 だが誰を襲おうとしていようが同じこと。聖騎士として土に還してやることが務めだ。 アリーファは剣を天に翳した。その動作に呼応するように僅かな雲の切れ間から弱々しい光が洩れてきた。分厚い暗雲から降る光は糸を引いているようにか細いが、確かに剣に向かって落ちてきている。そしてそれは刀身に吸い込まれていくような錯覚を覚える。 「神よ」 アリーファは主の名を口にすると光属性の魔力を解き放った。アリーファの周囲を霧のような白い光が放射状に広がっていく。光属性のバリアである。 セイントリリィはミムゼン家に伝わる聖なる剣だ。刀身には名も知らぬ花が描かれ、神の祝福を湛えている。 アリーファがそれを構えると、取り巻いていた白い霧が刃先へと吸い寄せられていった。 意に介さずに歩み寄ってくるタキシムたち。至近距離に近づいた一体へとアリーファがセイントリリィの鋒を向けた。白い霧がふんわりとタキシムを包み、その姿を韜晦させる。 そして唐突に閃光が迸った。無数の小石が爆ぜるような音とともに霧が飛散し、そのタキシムの姿は消え去っていた。 アリーファが得物を戻すと、余った霧たちもつられて彼女のもとへ戻っていく。 セイントリリィとアリーファのもつ光属性が合わさると、低級のアンデットぐらいでは一瞬で消失してしまう。もちろん彼女自身の魔力を消費するため何度も使える戦法ではないが、今宵のように連戦の想定されない戦いならばリスクも少ない。 それを見た残りのタキシムたちは、一瞬戸惑いを見せながらも再び進撃を始めた。 哀れな。 アリーファは剣尖を地へ向けたまま、悲しきものたちをじっと見つめていた。 重なるように体を揺らしながら近寄ってくるタキシムたち。僅かに前方にいたそれは、両手を突き出した状態でアリーファに襲いかかってくる。 今にも肩口を掴もうとしているタキシムを相手にしても、アリーファは身じろぎひとつしない。しかし本当に触れるか否かといった位置まで来ると、タキシムの身体を真上に向かって斬り上げた。柔らかな食品を包丁で切り分けるように、大した手応えもないままにセイントリリィの鋒が天を仰いだ。 血すらも出ず、ただ体が真っ二つに割れて左右に落ちていく。剣の魔力を直接受けたため、地に落ちるなり亡骸は粉砕され土となってしまう。 腐食してなおアリーファより大きな体を見ると、生前は男性だったようだ。ここはスィメア国史上唯一の激戦地とされているウィクルト平原。かれらは過去に散っていった英霊なのだろうか。 その僅かな間がスローモーションのように見え、アリーファの視界はやがてもうひとつの邪悪なる存在を捉えた。 残された虚ろなる不死者は、緩慢な動作で倒れ込むように向かってくる。殿のタキシムへ、アリーファはセイントリリィを振り下ろした。