溜め息。 足音。 溜め息。 紙を捲くる音。 溜め息。 鎧の軋む音。 一陣の風が泥臭い一帯を煽るように駆け抜けていく。 「カオリさん……」 無為を戒めるように音という音が過敏なほど響いて聞こえる。思わず口をついて出た佳人の名前。マックレアは狼狽して周囲を見回した。こちらに背中を向けてじっと平原を睨む仲間たちだけがそこにいる。恥をかかずに済んでマックレアは胸を撫でおろした。 気づけば夜陰に踊る可憐な妖精の姿が目に浮かんでいた。彼女を守らねば。騎士として国民を守らねば。掴んだ剣の柄に力が入る。 マックレアは同僚数人とともにチームを組み、夜半のウィクルト平原を回っていた。現在は王都の入り口に近い地点におり、別のチームが同じ地点に到着するまでこの地で監視を続ける予定だった。 なぜこんなことを考えていたか、理由は明白だ。昼間は彼女の宿泊先を回ったのに面会が叶わなかった。あの宿はエレーナ・ミルフレアの行きつけでもある。エレーナが行き違いになるように仕向けたに違いない。 頭に浮かぶのは言いがかりばかり。自分で自分が情けなくなる。 「マックレアさん」 唐突に名前を呼ばれてマックレアは肩を震わせた。振り向くと部下のサンダラス・マゼフォンが首を傾げている。 「どうかされましたか?」 「いや、なんでもない」 マックレアは空咳をすると、「今夜は冷えるな」と付け加えた。自分とほとんど歳が変わらないはずのサンダラスが、ポーカーフェイスを崩して眼鏡の奥の目をぱちくりさせている。黒い毛並みが印象的なワービーストの彼は、騎士団でも有数の斧の使い手である。ダンクス・ランガーハイトが入団すればさらに彼の実力も上がるはずなのだが。 「こんな辺境の地で悪魔が現れるとは驚きです」 「私もそう思う」 もっともまだそうと決まったわけではないが。 スィメアは居住エリアが少なく人口もたかが知れている。海沿いの地域ですら多くが急峻な山並みに覆われ、他国からの侵略をほとんど受けずに済んできた歴史がある。一方で人はこの地で繁栄することに幾度となく失敗している。かつては目を覆いたくなるような飢餓の歴史もあったという。マックレアが生まれる、遠い遠い過去の話だ。 今も後進国には違いない。この地に人が適応し始めたころ、残っていたのはほんの僅かな人間族だけだった。そんな影響もあり、今も人口の多くは人間族である。牧歌的で慎ましい生活を常とするスィメア国民には、亜人種に対して明確な排外行為よりも物珍しいものを見るような視線を向ける者の方が多い。言ってみればサーカスの檻のなかの珍獣だ。文化が違うことに一種の畏怖を交えているだけまだマシと言えるのだろうか、攻撃的な態度は取ることはない。 しかしこんな世間で人々の信頼を得、王国に尽くしているサンダラスの苦労を推し量ろうとするとやはり胸が痛んだ。 サンダラスは一歩前へ出ると、遠い平原の向こうを見晴るかした。暗闇の彼方に松明の光がぼうっと見えるだけだ。しかし彼の視力は人間族のそれとは比較にならない。 「何か異変はあるか」 サンダラスは応えない。しかしその刹那、彼の足が僅かにつま先立ち、踵が宙に浮いたのがわかった。 「こちらに第5隊が向かってきます。何をあんなに急いで……」 サンダラスが俯きかけた顔を慌てて戻す。 「急ぎ?」 不可解に思ったマックレアが尋ねる。 「この音は……いや、声は!」 サンダラスの低い声が怯えや驚きの響きを孕む。 「サンダラス! なんの話だ!」 マックレアが立ち上がって語気を強める。サンダラスの低い声を自身が聞き間違えたのではないか? マックレアは苛立ちを隠さずに言った。 「聞こえます。何かが近づいてきます。数人、いや数十……違う! 数百!」 そのとき地面が揺れたように感じだ。それは錯覚だったのか、真の地響きだったのか。やがて騎士団員の悲鳴が聞こえ、奇声にかき消されるかのように彼方の火の光がその儚い輝きを失った。 「これは……」 「屍人です! 数え切れないほどの!」 気づけばウィクルト平原の南の丘陵を覆うようにひときわ黒い影が並んでいた。あれが数百体で済むのだろうか? マックレアの剣を掴む手に汗がじわりと滲んだ。 やがて地中奥深くから響き渡るような怨嗟の唸りが、燎原の火のように地平線を駆け抜けてきた。 戦いは幕を開けたのだった。 (第9章 終わり)