「スタング神官長!」 闇に紛れて見えないのではなく、なにもないがために目が捉えられない丘陵に、アリーファとエネリスは立っていた。耳をすますと聞こえてくる石の転げる音、砂が吹き出す音、そして喘鳴。 音の出どころに気づくとアリーファは駆け出していた。岩をも砕くような力が大地を削り去り、跡形もなくなってしまった丘。今では逆に陥没してしまい、目に映るそれをにわかには信じられなかった。いわんやそこに砂石にまみれた人間を見つけたとあればなおさらである。 「スタング神官長!」 アリーファは再び叫んだ。目に入る砂埃を拭いながらしかと目に焼き付ける。間違いない、それは神官長マズール・スタングその人だった。 アリーファはスタングの上半身を抱き上げ、自身の膝に乗せた。 エネリスがすぐそばに降り立ったのがわかる。しかし彼女を視界に入れることはためらわれた。 マズール・スタング。今でこそ力は衰えたが、若い頃には世界中の教団で十指に入る秘術の使い手として知られていた。後にスィメアの聖騎士長に登りつめたアリーファの父も、彼の実力は本物だと褒め称えていたものだ。 しかし今なおスィメア神殿最強にして最高位の神官は、ここで塵にまみれて虫の息となっている。 「そんな……そんな、神官長。一体……何が」 アリーファの目に涙が浮かんだ。スタングのローブが砂に汚れてしまっている。アリーファ自身爆心地の近くにいて危うく大怪我を負いそうになった。これほどの術の使い手とは何者なのか? 或いは神官長を倒してしまうほどの悪魔とは? 今は亡き父に厳しく育てられたアリーファにとって、動揺というものはない。今も冷静に事態を飲み込めているはずなのに、目頭が熱くなって涙が溢れるのだった。エネリスはただ黙ってそこにいた。周囲に敵はいない。だから口を開く必要がないのだろうか。 「よせ……アリーファ。お前らしくもない」 スタングは傷だらけの顔を綻ばせ、小さな声で言った。聖職者としての彼はやはり厳格で、柔和な副神官長とは違って苦手意識をもつ信者も多かった。だが彼の信仰は本物であり、神の造物たる森羅万象を博愛する精神は誰の目にも明らかだった。 「お前は、次期ミムゼン家の当主ではないか。先代マクスウェアのように強くあるのだ」 「……はい。承知致しました」 アリーファは両手を強く握りしめた。戦いのなかで人は必ず死ぬ。ここで自分が強くあらねばさらなる犠牲者を増やすことになる。 「ですが神官長! ここで一体何が」 しかし質問はそこで遮られることになる。スタングの突然の吐血にアリーファははっきりと狼狽を見せた。 「神官長っ!」 スタングの咳が止まらない。口を押さえようとする手に細かな血が次々と模様を描いていく。 アリーファが傷の手当てをしようと腕を動かそうとする。しかしスタングがそれを静止した。 「アリー……ファ……。今すぐ都へ……奴は……あの悪魔は」 今にもスタングは天に召されそうになっていた。もう声から伝わってくる生命の力がほとんど感じられない。 ここまでなのか。 「伏せるのじゃ! アリーファ!」 唐突に耳に入ってきた大声に、一瞬反応が遅れてしまった。そう叫んだのがエネリスだと、理解が追いつかなかったのだ。無表情で人間の感情を解さないエネリスが、人間臭く上擦った声で危険を報せてきたのだとは。 一瞬で展開したオレンジのオーラが、天に浮かぶ衣のようにひらひらと眼前を通り抜けていく。それは鎌を持って突撃したエネリスの残像だった。 カキン、と金属がかち合う音が響いた。エネリスの鎌は黒いローブが構えた杖とぶつかり合っている。それはエネリスの召し物とよく似ているが、サイズがあまりに違う。もちろん虚空を漂うローブではない。そこには角を生やした邪悪なる者の姿が隠されていた。 「まだ生き残りがいたのか」 発するだけで暗闇を空気ごと切り刻んでしまいそうな鋭利な声だった。ローブの奥から悍しい色をした目が光っている。 その瞬間アリーファは察した。この者がマヌガス・フィーローらから共鳴の杖を奪ったことを。そしてマズール・スタングを瀕死にまで追い込んだことを。 男はエネリスの鎌の切っ先を素手で掴むと、それを一瞬で消滅させた。原理は全く理解不能だった。そしてその刹那、男は杖をエネリスの胸元に向けた。エネリスは成すすべもなく西に聳える崖へと吹き飛ばされる。 「エネリス様っ!」 岩が陥没する音が聞こえる。無防備な人間なら死んでしまっていただろう。 アリーファは帯刀に手を伸ばした。しかしスタングがアリーファの細い腕を掴む。 「神官長っ! 何を!?」 スタングは首を横に振る。そして唇を動かした。「退け」と。 そんな……。 アリーファは衝撃を隠しきれなかった。神僕たる教団関係者にとって、神の敵からの逃亡は絶対に許されない行為だ。まして神官長ともあろう者がそんなことを口にしていいわけがない。なぜ……? アリーファは混乱を隠せない。何かの間違いではないのか。いや、今はエネリスを助けるのが先決だ。 アリーファはスタングの手を払いのけ立ち上がった。そしてセイントリリィを引き抜いた。 ローブの男はこちらに向き直っている。虚無に浮かぶ亡霊のように気配を感じさせない。神官長も隙を狙われたのだろうか? 「今度は聖騎士か。まあいい。まとめて楽にしてやるよ」 ローブの男の右の手のひらが赤く、そして黒く輝いた。それは……直前に見た獄炎と同じ色だった。 「お前は一体!」 アリーファは魔力を解放して剣を構えた。 アリーファは今度こそ怒気を隠さなかった。アリーファの仮面は完全に砕け散っていた。神官長が倒されたこと、協力をこじつけた死神に危機が迫っていること、上司から敵前逃亡を指示されたこと。すべての不安と不満が混ざり合って感情がふつふつと煮え上がってしまったのだ。 「それを聞いてどうするつもりだ? セ・イ・キ・シ・サ・マ・ヨ」 2本角の悪魔はふわりとローブの裾をはためかせると僅かに宙に浮いた。 先手必勝。アリーファの戦士としての直感がそう告げていた。アリーファはセイントリリィを両手に駆け出した。 しかし……。 今思えばその怒りが仇となったのだろうか。アリーファが駆け出そうとしたときには、すでに悪魔が目の前に立ち塞がっていたのだ。まるで空間を超越したように、ほとんど動いたさまが見えなかった。 セ・イ・キ・シ・サ・マ・ヨ。 この言葉の響きがおかしく聞こえたのは、肉声が彼の移動スピードより遅れてしまっていたからなのかもしれない。 「お前の命はもう消えるんだぞ?」 驚くほどアリーファの間近で聞こえてきた。 眼前に迫った悪魔は、その右手でアリーファの首を掴み、締め上げていた。