オモイハセルモノ

ひとつ、ひとつ。階段を下りていくごとに現実へ帰る感覚を踏みしめる。
アルコールで浮かれた脳と足は緩やかに。キロランケが磨いてくれた靴の光沢を楽しみながら酔っ払い特有のゆっくりとした動きでなまえが一階に降り立つと、視界の端から手が生えた。伝うように視線を上げると、傍らに綺麗な笑みを浮かべた男性が立っていた。

「此処のオーナーをしている、鶴見と申します」

以後お見知りおきを。握られた手をなまえはぼんやりと見つめた。何故こんなことをされているのだろう。

「ご丁寧にありがとうございます。みょうじなまえです。夢のような時間を過ごせました。ありがとうございます」
「ふふっ。それはよかった」

握られたままの手を子供のように振る。なーべーなーべーそーこぬけ。そうした後、なまえはようやく自分がひどく酔っていることに気がついた。

「でも、もう来れないかも」
「それは──どうしてか教えていただけますか?」

何か不備がありましたか?と丁寧に応対してくれる彼の目は、彼女をじっと見つめている。

(今自分が失礼こきました!!)

「夢は醒めるものでしょう?」

そーこがぬけたらかえりましょう。
今度こそ口に出して言うと、鶴見と名乗った男性は目を丸くした。
やはりこのまま帰ろう。これ以上喋ると訳の分からないことを口走りそうだ。そう思いなまえは手を離す。

「良い夢をありがとうございました」

深々とお辞儀し終わると逃げるように立ち去ってしまう彼女の背中を、鶴見は見えなくなるまで見送った。

「──月島」
「はい」
「彼女は」
「覚えていないようです」
「そうか」
「ほっとしましたか?」
「遠慮が無いな」
「我々の仲でしょう」
「それもそうだな」

もし“以前“のことを覚えていたなら言葉も交わしてくれなかっただろう。
それぞれ波瀾の人生を歩み、時に相手を利用し裏切った。
敵対する理由はもはや無いが"面識"があることを思い出した際には、記憶の混濁によって日常生活に支障をきたす者もいた。思うように折り合いをつけられるものではないのだ。
ちらほらと鶴見の存在に気づく客が現れ始めたため、適当な方向へ手を振り歩き出す。蟻に集られる砂糖のようにはなりたくない。

(彼女もあの時、同じことを思っただろうか)

あの時代、情報を集め策略を巡らせ、血の継承のためにと女一人に固執する男達の浅ましさ。我々が彼女を囲い、追い詰めた。

「彼女は、また夢を見に来てくれるだろうか」
「……」

別室へと共に行動した月島は、すぐに返答することができなかった。
そればかりは彼女が決めることだからだ。答えに窮していると、彼の身につけている内線が反応する。鶴見に一言声を掛けてから月島は無線に出た。

「軍曹!?もう彼女帰っちゃった?!」
「音量を考えろシライシ!もうお帰りになってる……オイ」
「ひぇっ」
「送り指名は誰だ」
「じ、実は…途中で潰れちゃって」
「キロランケと代われ」
「─彼女が寝かせておけと言ってな」
「丁重にもてなすよう言ったはずだが?初来店のお客様を一人で帰らせるなんて」
「しかも彼女はシライシに貸したコートまで忘れている」

頭が痛くなってきた。

「連絡は着くのか?」
「……名刺は渡したが」
「そこはバッチリ!」
「なら彼女に取りに来るよう連絡しろ。クリーニング代はお前持ちだ」
「ギャアーーッ!!」

悲鳴を残し、内線は切れた。背後からくすくすと笑い声が漏れている。

「笑い事ではありません」
「良いじゃあないか。これでまた会えるかもしれん」

鶴見の嬉しそうな笑顔に、月島は肩の力を抜いた。嬉しいと感じるのは己も同じだった。

「内密に"希望者"を確認するように」
「分かりました」
「彼女への連絡も忘れずに」
「はっ」
「昔の癖が出ているぞ」
「……失礼」
「はっはっはっ!」

夜明けが待ち遠しく思えるなんて。
夜を照らす街並みを見下ろした彼の瞳は、遠足前の子供のように輝いていた。



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