Spica
ハンドルを握り、後部座席で目を閉じていた侯隆の頭がガクリと揺れるのをルームミラー越しにちらりと見た。
最近、移動中にこうして睡眠を取ることが多いけれど、それでも体力の回復が追い付かないように見える。
先日侯隆の家に泊まった時には、寝顔を見つめていてもその長い睫毛はピクリとも動かないから、呼吸すらしていないんじゃないかと思った。日々の稽古や収録、立て続けの取材で疲労の色は濃く、死んだように眠っていた。
寝ている彼をこうして見ている分には何でもないのだけれど、ここの所顔を合わせるのがなんとなく怖かった。
5日前、侯隆が一人で座るベンチの隣に、共演の女優さんが座っているのを遠目で確認して離れたところから様子を伺っていた。周りに人がいるわけでもないのに彼女が耳打ちして笑うと、侯隆も笑った。その柔らかい彼の笑顔を見て、思わずその場から逃げるように立ち去った。
何度も蘇るその光景に、心が怯えていた。嫉妬とは少し違う。最近侯隆の笑顔を見ていなかったのに気付いたから。稽古場や収録では見慣れていた少し疲れたその笑顔も、自宅に帰って私といる時には随分見ていないような気がする。それに気付いたら、どうしようもない不安に駆られたのだ。
私自身が取ってきた仕事が、彼を追い詰めてはいないだろうか。
侯隆と二人三脚で仕事をしているつもりでいたけれど、本当にそうだっただろうか。
笑顔が少なくなり、死んだように眠る侯隆を見る度に浮かんでくる負い目のような感情。
慌ただしい日々が続けば続くほど、いつか彼がふとした瞬間に、仕事からも私の前からも逃げ出してしまわないかという不安が、ここ最近ずっと取り巻いていたのだということにも、同時に気付いたのだ。
その日自宅に来るはずだった侯隆に断りを入れた。変なところで敏感な彼と一緒に居るとこの感情に気付かれてしまいそうだから。
もぞもぞと布が擦れる音と共に小さな咳払いが聞こえてはっとした。ルームミラーをちらりと見ると、いつもより細い目をした侯隆が、ミネラルウォーターのペットボトルに口を付け喉を潤している。
『...明日何時やったっけ』
小さく呟くように言ったそれは、私に質問しているのかどうかも怪しい程に独り言感があった。
「8時」
『あぁ、そうか...』
また小さく呟いた侯隆は窓の外に目を向けてぼんやりと景色を眺めているようだ。
彼の家まではあと5分程。舞台が始まり稽古の時に比べると帰宅は早い。時計に目を遣ると、あと1時間で今日が終わる。日付が変わる前に家に送り届けられそうだ。
『...なぁ、行先って変えれる?』
突然の申し出に驚いて一瞬言葉に詰まる。こんな時間からどこに行くというのだろう。マンションはもうすぐで、そんなに疲労感丸出しの状態で、今から飲みに行くとでも言うのか。
『...なぁ』
「...どこ」
『...お前んとこ』
予想外の回答に心臓をぐっと掴まれたような感覚に陥った。一気にすごい勢いで全身を巡る血液のせいで体温が上がる。
どうしよう。こんなモヤモヤした気持ちのままで、ふたりきりの部屋にいることが出来るだろうか。
「...私、車置きに、」
『だから言うとんねん。一緒に行くのはあかんやろ?せやから、下ろしてや。お前ん家の前。待っとくから』
「...遅くなるよ、」
言い訳のような言葉を並べる私に侯隆が黙った。ルームミラー越しに視線を感じるけれど、目を遣ることが出来ずにコクリと喉を鳴らす。
『話あんねん』
トーンを落とした侯隆の声に不安が過ぎる。早い鼓動がますます胸を軋ませるから、唇を噛み締めた。
煮え切らない私に苛立ったのか溜息を漏らした侯隆が、自宅マンションの手前で『停めて』と言った。
『ええわ』
停めたバンのドアを開き、別れの言葉もないまま車から降りて歩き出した侯隆の背中を見つめていた。
臆病な自分に嫌気が差すけれど、今別れを突き付けられてしまえば崩れ落ちてしまいそうで、何もかもダメになってしまいそうで向き合うことが出来なかった。
早い鼓動は鎮まることなく脈打つ度に痛むから、泣き出してしまいそうで唇を噛んで車を走らせた。
車を置いて事務所へ寄り建物から外へ出ると、溜息を吐いて星一つない空を見上げた。灰色の雲が目立つ空はますます気持ちを下げる。雨が降らないうちにと足早に歩き出せば、少し向こうに見慣れた車が停まっていたからドキリとした。思わず足を止めた私を、車の中の侯隆が真っ直ぐに見ていた。
ゆっくりと近付いてきた車が私の横で停まり、少し躊躇ってから助手席のドアを開け乗り込んだ。
『お疲れ』
「...うん」
走り出した車の中で俯く。
侯隆のしたい“話”がこれから始まるのかと思うと、今までにない程緊張していた。知らず知らずのうちにバッグを掴む手に力が篭り、爪痕がついているのに気付く。
黙ってその時を待つけれど、信号待ちで停車しても侯隆の目は窓の外へ向いている。その横顔を盗み見て震えるように静かに息を吐き出すと、侯隆がくるりとこちらを向いたから思わず視線を外した。
『俺に隠してることあるやろ』
思いも寄らない言葉に一瞬頭が真っ白になる。すぐに我に返って“隠していること”を考えてみるけれど、正直思い当たらない。
「...なんだろ、わかんない」
信号が青になって前を向いた侯隆に目を向けると、横目でちら、と私を見て言った。
『隠さんでええて。ほんまの事言えや』
自宅付近での別れ際とは正反対の穏やかで柔らかい口調にますます戸惑う。
私が負の感情を抱えていることを言っているのだろうか。けれどそれが侯隆の言う“隠してること”に当て嵌る気がしない。
頭をフル回転させ最近の出来事を遡ってみても、やっぱり思い当たる節がないから妙に焦る。
『体調、悪いんやろ?』
「......え?」
間抜けな声が出た。
...体調?正直、別に悪くない。そんなようなことを言ったことがあったのか。そんな素振りを見せたりしたのか。今度はそっちを思い返してみても、やっぱり何も思い当たらない。
「...悪くないよ...?」
すると私にちらりと目を向けてから角を曲がり、大通りを外れたところに車を端に寄せて停めた。黒縁の眼鏡から鋭く私を見つめたその瞳を見つめ返すと、何か言いにくそうに言葉を飲んで視線が逸れて行った。
「あ、」
視界に入ったデジタル時計が丁度0時を回ったから思わず反応すると、侯隆の視線がまた私に戻る。
「...誕生日、おめでとう...」
『...話逸らすなや、』
「............、」
『...や、ありがとうな』
微妙な空気が流れる車内。
侯隆は私に何を言わせたいのだろう。
『...言うたらええのに』
「...なに、」
『なんで言わへんの』
「...だから、何を、」
忙しなく視線を移動させる侯隆の異様な空気に息を飲むと、侯隆は鼻を啜って口元を掌で隠すように覆った。
『...病院、行ったん?』
「......はぁ?なに、」
『産婦人科やろ、』
思わず言葉を失った。丸くなった目で侯隆を見ると、車内に差し込む街頭の灯りに照らされた耳が赤いように見える。
『一緒に行ったるから。...な、行こ』
とにかく驚いていた。急に何を言い出すのかと思ったけれど、...きっとそういうことなのだろう。
優しい声色と私を思い遣るその目は、一瞬で私に絶対的な自信をくれた。私はちゃんと彼に愛されていた。
「...してないよ」
『..............。』
「してない、妊娠」
身動ぎもせず、視線すら私から動かさない侯隆を伺うように見た。
どうしてそう思ったのかはわからないけれど、今の対応だけで私と向き合おうとしてくれているのが痛い程にわかったから、もう大丈夫。
目を閉じて顔を背けた侯隆は大きな溜息を吐いて天井を見上げる。残念なのか、安堵なのか、よくわからないその表情に、申し訳ないけれど少し笑いたくなった。
『...なんで?なんか変やったやん。俺の顔全っ然見てくれへんし、キスもせぇへんし、...もうアレや。なんか色々、』
子供のように文句を並べて掌で顔を覆う侯隆の表情は見えないけれど、その様子に安堵していたのは私の方だった。
『...そんなん信じるやん、』
「...何を?」
『...すばるが、言うから...』
「え?」
『#name1#が妊娠してんちゃうかって』
1週間程前にすばるくんに食べ物を勧められて断ったことを思い出し思わず苦笑いした。すばるくんだって本気でそんなことを言ったわけではないだろうけれど、私の行動が重なって侯隆にそう思わせてしまったということなんだろう。
『...なんや、...ちゃうんや...』
今度はその声に落胆も含まれていた気がして胸が温かくなる。
「...ごめんね」
『...まぁ、いつか...な。今はお前一人で充分や』
言ってすぐに大きく顔を逸らした侯隆の耳は真っ赤で、その言葉の意味を噛み締める。思い出したようにエンジンをかけアクセルを踏んだその横顔は、見慣れたようで少し違う。見慣れた仕事の顔と、いつまで経っても見慣れない私だけに見せる特別な顔は、いつも私を強くさせる。
『...赤坂プリンスはまた来年な』
「来年、」
『来年もどうせ一緒におるやろ』
去年の誕生日も同じようなことを言っていた。私達の関係に“来年”があることは約束されてはいないけれど、それでもその言葉ひとつがお守りみたいで口元を緩めた。
「...誕生日おめでとう」
『さっきも聞きましたー』
照れ隠しのような返しに笑った私をちらりと見て侯隆がふっと息を漏らして笑った。また今年も彼の大切な日にこの横顔を見つめられる幸せを噛み締め、彼をずっと側で支え続ける存在でいられるように雲の隙間から覗いた一つの星に願いを込めた。
Happy birthday!! 2017.5.9
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