euphoria


56


“どこ行こか”と言われたから“海”と一文字返信した途端、電話が掛かってきた。
驚くのも無理はない。きっと章ちゃんの言う『どこ行こか』は、“店”のことだったのだ。デートではないから、会うとすれば大体居酒屋だったりする。友達なんて、そんなもん。私達はそれくらいの関係。
それは充分にわかっていたけれど、どうしても行きたかった。章ちゃんがあまりにも夏の海の話をしていたから。だから密かに憧れていた。章ちゃんと海に行くことに。

清々しい青。...ではなくて、今にも降り出しそうな灰色の雲に覆われた空を映す海も暗い色をしていた。陽射しのない海は潮風が冷たく、夏の終わりどころか本格的に秋。
それでも二人砂浜に並んで座れば、私の心は少しだけあたたかくなった。

ポツリ、と腕に落ちてきた雫を見て空を見上げた。すると急に、苦しいような、泣きたいような、よくわからない感情に心が攫われた。季節の変わり目は、どうして寂しい気持ちになってしまうんだろう。

『降ってきたー』

飲み物を取りに行った章ちゃんが、向こうの車の傍から手招きする。きっともう帰ろうということなんだろう。
車に向かいながら名残惜しく海を見遣る。その間にも雨脚が徐々に強まり、私の肌を打ち髪や服を濡らした。夏の終わりの雨は冷たくて、永遠の別れの様に胸が苦しい。

章ちゃんに名前を呼ばれ、やっと足が動いた。車まで歩いて戻ると、背中を押され乗るように促される。

『...寒そ』

章ちゃんが私の手を引き助手席のドアを開け、中へ押し込む。フロントガラスは水滴だらけで、暗い色に染まった海ももうよく見えない。

『...夏も終わりやなぁ』

運転席に乗り込んだ章ちゃんが、フロントガラスを叩く雨粒を見つめながら言った。
するとくるりと後ろを振り返り、後部座席からバスタオルを取り出すと、私の頭から被せる。章ちゃんが上から温める様に私の腕を摩ってくれるから、その優しさにますます切なくなってしまう。

タオルの隙間から顔を覗き込んだ章ちゃんとの距離にドキリとした。私の憂鬱が伝わったのか、優しい笑みを浮かべ、宥める様に頭をぽんと撫でる。

『また来ればええやん。な?』

小さく頷くと、またぽんぽんと頭を撫でて、章ちゃんが笑う。照れ臭くて視線を逸らすけれど、その距離は変わらない。章ちゃんはほんの10センチ程の距離で、目の前で私を見つめているから胸が高鳴る。

視線を上げると、近付いた章ちゃんの唇がタオルの中で私の唇にキスを落とした。どくりと飛び跳ねた心臓はバクバクと鼓動して、冷え切った私の体温を一瞬で上げる。

柔らかく唇を押し付け、離れ行った章ちゃんの顔を見ることが出来ずに目を伏せた。
するとタオルの中に差し込まれた温かい手が私の頬を包み、視線を合わせた。

『...まだ帰したくないねんけど』

殺し文句の後に落された優しく酷く甘いキスは、憂鬱を連れ去って、胸に甘い痛みだけを残した。


End.

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