euphoria


Dear Lover


『別れてくれない...?』

その一言で、ストローを咥えたままの章ちゃんの視線が隣のテーブルから私へと戻って来たから、思わず章ちゃんから目を逸らして俯く。

『...もう、無理だよ』

重苦しい空気に耐えかねて自分も手元のアイスロイヤルミルクティーのストローを掴めば、章ちゃんのグラスの氷がカランと音を立てた。

『.....何が?』
『...いつも優しいけどね、その優しさは優しさって言わないんだよ』

少しの間の後に溜息が聞こえてまた沈黙が続く。
すると俯いた私の視界の端に入ってきた章ちゃんの手が、皿に乗ったスコーンを掴んだ。ちらりと視線を上げて章ちゃんを見れば、両手でスコーンを持ってハムスターみたいに小さくモソモソと口を動かしながら、隣のテーブルで別れ話を繰り広げる二人を横目でガン見していた。いつも食べる時には取るはずのキャップも取り忘れるくらいに夢中で。

思わず眉を顰め章ちゃんに訴え掛けるように視線を送るけれど、章ちゃんは相変わらずチビチビとスコーンを齧りながら眉間に皺を寄せて、伺うように隣の2人の間に視線を往復させている。

ただでさえ目立つ章ちゃんがそんなに見てたら気付かれるよ。わざわざそれを避けるために奥まった端の席を選んだのに。まぁ、隣の2人はそれどころではないだろうけれど。

見兼ねてテーブルの下で章ちゃんの足を蹴れば、びくりと大袈裟に体が揺れ、口の端からスコーンの欠片がこぼれ落ちた。
私に戻って来た章ちゃんの真ん丸になった目に、小さく首を横に振って訴え掛ければ、何度か小さく頷いて零れたスコーンの欠片を拾いトレーに乗せた。

『...た、食べる...?』

妙に不自然な小声は、隣の重苦しい空気の二人への気遣いなのだろうけれど、余計なお世話でしかないと思う。

『...たべ、...食べへんの...?』

もはや誰に気を遣っているのかわからない程、弱々しく私に差し出されたスコーンを持ったその手と、上目遣い。こんな時なのに、その困ったような表情にあまりにキュンとしてしまったから照れ隠しにスコーンに手を伸ばす。すると手を引っ込めた章ちゃんが、自分が口を付けたその部分を割って残りの半分を私に差し出した。それを受け取って俯きがちに口に入れると、隣の席の男の人が何か言い残して席を立った。

ちらりと視線を上げて男の人の背中を見送れば、目に入った章ちゃんが眉を下げて私の隣の席の女の人を見ていた。横目で女の人を覗き見ると、俯いた顔から彼女の膝の上に涙が落ちたから顔を戻す。

2人無言でテーブルを見つめたままスコーンを齧っていた。隣から小さく啜り泣きが聞こえるから、何だか私の胸まで締め付けられてしまう。

『...出よか』
「...ん」

残りのカフェラテを静かに啜って、章ちゃんがトレーを持ち上げた。するとすぐにそれを置いてポケットに手を突っ込み、出て来た小さなハンドタオルを見つめた。けれど、すぐにそれをまた慌てたようにポケットに押し込み、章ちゃんが私をちらりと見て再びトレーを掴んだ。

返却口へトレーを片付ける章ちゃんより先に外に出て空を見上げていたら、後ろから来た章ちゃんに頭をポンと叩かれた。
二人並んで歩き出したら、章ちゃんが前を向いたまま言った。

『...ちょっとした衝撃やったな...』

その横顔を見つめてから自分も前を向いた。

「私があげたハンドタオル渡そうとしたこと?」
『...んふふ、ごめんって。気付いたからしまったやんか』
「いいけどー」

2人で笑っているけれど、何だか心の中は少し違った。
ショック、…モヤモヤ、とも少し違う。きっと、不安に近い感情。
私達にも来るかもしれない別れを想像してしまったから。

悩んだり考えさせられたりする瞬間なんて沢山ある。
根も葉もない噂、付き合いだから行くらしい女の人の沢山いるお店。マネージャーさんからのスキャンダルに関する念押しの電話。章ちゃんに言えない不安からくる葛藤。章ちゃんを失う恐怖。会えない時間。そんな些細なことから始まる喧嘩。
いつ、何がきっかけになるかなんてわからない。

章ちゃんは今何を考えているんだろう。会話がないのは珍しいことではないけれど、今日は私の心がいつもと違うから、少しだけ居づらいように感じる。

『...じゃあ、気ぃ付けてな』
「...それ、毎回言うよね」
『あは、そうやったっけ』
「そうだよ」
『...ん、じゃあな』
「バイバイ」

マンションの近くのコンビニの前でさらりと別れ、一人マンションへ歩く。章ちゃんが入って行ったコンビニを振り返れば、雑誌を手に取った章ちゃんがこちらを見ていた。



自室に辿り着いてすぐにシャワーへ直行。今日は湯船に浸かることもなくすぐに出る。
脱衣所で髪を乾かし終えドライヤーを止めれば、リビングからアコギの音色が聞こえてきた。
リビングへ繋がるドアからアコギを抱えるその姿を覗き見る。小さくメロディーを口ずさみながら時折目を閉じる章ちゃんを見てドアを開けるのを少し躊躇った。

時間差でマンションに入ることも、二人の時間を少しでも長く作るために先にシャワーに向かう約束も、部屋に置かれたままの章ちゃんのスウェットやアコギも、この音色も歌声も、当たり前になり過ぎている。

顔を上げた章ちゃんがぴたりと手を止める。大袈裟に首を傾げて笑いながら私を見るから、ドアを開けてリビングへ入った。

『遅い思たらそんなとこで何してんねん』
「...途中で入ったら気になるかなって」
『大丈夫やっていつも言うてるやん』

笑いながらアコギをケースにしまってソファーから立つと、私に手招きしながら寝室へ向かった。
こんなに早い時間にベッドに行くなんて珍しいな、と思いながらも寝室へ入れば、ベッドの上に転がった章ちゃんが手を広げた。ベッドに乗り上げるとその腕が私を引き寄せて横向きに抱き締め、軽くキスを落とす。私を見て笑みを浮かべた章ちゃんが、背中をぽんぽんと叩きながら私の首筋に顔を埋めて額をぐりぐりとそこに擦り付けた。はぁー、っとあまりにも大きな溜息を零すから、目の前の髪に触れた。

「...おっきい溜息、」
『んふふ』

顔を上げた章ちゃんにくるりと体を返されて仰向けになると、私の上の章ちゃんが髪を撫でながら一度キスを落とした。今度はいきなり胸元に顔を埋められてドキリとした。けれど、黙り込んだまままたそこで溜息を漏らすから胸元に熱い吐息が篭ってじわりと体が疼く。

「...どしたの、急に」
『んー?』

誤魔化すように笑いながら顔を上げて微笑んだ後にゆっくりと唇が触れてから舌が絡められた。Tシャツの裾から入った章ちゃんの手が素肌を撫で、胸元に唇が落ちて行った。

会う前にシャワーを浴びて来たと言っていた目の前にある章ちゃんの髪から私と同じシャンプーの香りがして、何だか妙に安堵していた。安心、ではなく安堵。ふとした瞬間に勝手に不安になって、勝手に安堵する。章ちゃんを信じていないわけじゃない。当たり前になりつつある幸せを失うのが怖いだけ。




気だるさの残る体で、煙草の煙の中でスマホを耳に当てる章ちゃんの横顔をぼんやり見ていた。
数十分前に掛かってきた電話は多分仕事の電話だったはずなのに、私の中に入ったまま相手だけを確認して章ちゃんが携帯を置いた。
煙草を灰皿に押し付けた章ちゃんと目が合うと、携帯の終話ボタンを押して笑顔が向けられた。

『大丈夫?どっか痛いん?』
『疲れた?』

どちらの問いにも小さく首を横に振ると、私の頭をポンポンと撫でベッドに入って私の隣に転がった。腰の辺りに章ちゃんの温かい手が触れて、労わるように撫でながら私の顔を覗き込む。

『なぁなぁ、』
「んー...?」

顔を章ちゃんの方に向けると、章ちゃんが私を跨いでぴたりと私の上に乗って胸の辺りに顎を乗せ私を見つめた。

『俺のこと好き?』

突然の問いに一瞬動揺したものの、間を空けてしまえば答えにくくなるのは知っている。

「うん」
『ふーん』
「どしたの」
『ううん、別にー』

...何それ。自分で聞いたくせに。
さっきの隣の別れ話を聞いて、ちょっと気にしてるのかと思ったじゃない。

「あ、そう…」
『俺のこと好きなんやろうなーって思っただけー。んふふふ♡』

ふにゃりと笑って私を見つめる細められたその瞳に、この上ない安心感をおぼえた。
私の不安を感じ取ったのか、それともあの2人に何か感じて口にしたのか、何も考えていないのか、私にはわからない。けれどこんなに些細な言葉と笑顔と温もりが私を幸せにしてくれるのだから、それで充分だと思った。

心配したって仕方ない。そうは思っていても、それでも不安になる。それを払拭してくれるのはいつも章ちゃんで、章ちゃんしかいなくて。

「...章ちゃんは...?私のこと、」
『好きーめっっちゃ好き』

食い気味に私の言葉に被せた章ちゃんの満面の笑みを見て思わず私も笑みが溢れた。

「...知ってた」

うん、知ってた。こんなに私を想ってくれているのに、ずっと心配しているなんて勿体ない。
あははと笑って少し体をずらし上に上がった章ちゃんの唇が近付く。...と、章ちゃんの携帯の着信音が鳴った。

『...もぉー、』

軽く私にキスを落とし体を浮かせてベッドの上のスマホを掴む。人差し指を唇に当て私を見ながら通話ボタンを押すと、マネージャーらしき人の声が漏れる。

『...えー?それ帰る前に聞いたやんかぁ』

話しながら章ちゃんが私の指を弄ぶ。目が合えば私に顔を寄せ、唇が触れる直前まで近付いて笑った。

『それだけ?嘘やん…もう寝るとこやっちゅーねん!』

そんなことを言いながらも、ありがとうとお疲れ様を忘れない、相手を労るところが好き。
電話を切って枕元に放り投げると、章ちゃんがキスを落しながら再び体を跨いだ。

『邪魔ばっかされるなぁ、今日は』

笑いながら私の布団を剥がしてキスを落すと、腰の辺りを擽るように章ちゃんの指が滑る。

「...寝るんでしょ、?」
『そうなん?』
「“もう寝るとこ”ってさっき言った、」
『...んーん、もっかいする』

弧を描いた唇が優しく触れて、一気に色気を纏った瞳が私を見つめた。
私の心なんか全て見透かしているようなその目は今確かに私だけを見つめているから、持て余す程の“好き”さえも全て伝わるように願いを込めてキスを交わした。


End.

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