euphoria


ease off!!


『ごめん』

今の“ごめん”は、何に対する“ごめん”なのだろう、とぼんやり考えたまま立ち尽くしていた。

一人にして、ごめん。
一人で決めて、ごめん。
...別れよう、のごめん。

どうとも取れるその短過ぎる謝罪を受けて、顔を上げられずにいた。
何が、と聞き返すことは出来なかった。怖くて、今聞いたことを受け止めるので精一杯で、何も言葉に出来なかった。

見慣れた章ちゃんの部屋のテーブルには、見慣れない大学の資料が広げられていて、それすらも視界に入れたくなくて更に俯いた。



転学したいねん

あまりに突然だった。そんな素振り、見せてなかったじゃない。つまらなそうに講義を受けてたのは知ってる。でも、そんなのいつものことだったでしょ?

今とは違うことを勉強したいだとか、
将来やりたいことがどうだとか、
気持ちの変化だとか。
章ちゃんが何を言っているのかわからなかった。
全く頭に入って来なかった。

ただ、章ちゃんが離れて行ってしまうという事実を受け止めるので精一杯。

なんで私に先に相談してくれなかったの?
...そんなこと、聞かなくたってわかってる。私に相談する程の迷いは、きっと章ちゃんの中になかったのだから。
自分の夢はまだぼんやりしていて、一人取り残されたような孤独感。私に章ちゃんの夢を止める権利はないし、文句を言う資格もない。
それが少し悔しくて、物凄く寂しかった。


「...やだ」

消えそうな声で呟いた。
こんな抵抗、どうにもならないなんて知ってる。けど、いってらっしゃい、とただ笑って見送るなんて出来そうもない。

『まだ受かってへんし』

章ちゃんの顔を見ることが出来ずに、ずっと俯いていた。
覚悟を決めた章ちゃんが、希望の大学に受からないはずがない。絶対に。章ちゃんはそういう人だから。

私の知らないとこで、どんな生活するんだろ。友達なんてすぐ出来るんだろうな。きっとモテちゃうんだろうな。
...その前に私たち、受かったら、別れるのかな。

勝手に先走った想像をして涙が滲む。
入学して章ちゃんに再会して、私が近くで見てきた光景を、私の知らないところで章ちゃんだけがもう一度繰り返すのだと思うと、寂しくて苦しくてたまならない。

『...たかが一時間の距離やろ。大袈裟やねん』

章ちゃんは呆れたみたいな口調で言ったけれど、本当はそうじゃないことはわかってる。それに、離れても私たちの関係が続くのだと、その言葉で理解した。
けれど“歩いて10分”の距離からの“電車で一時間”の距離は、今の私には大き過ぎる。それをこの短時間で受け止めろだなんて、出来るはずがない。

『...今日、泊まってく?』

私に見せるためにテーブルの上に広げた新しい大学の資料を纏めながら、章ちゃんが言った。
一緒に居たいのか、一人になりたいのか、よくわからなかった。けれど、この現実から逃げ出してしまいたい気持ちも確かにあった。

『座れば』

答えない私にいつものように素っ気ない態度を取ることもない。いつもと違う章ちゃんの優しさは、ますます胸を締め付けた。

立ち尽くす私を急かすことなく、ソファーに座ってテレビをつけた章ちゃんの横顔を盗み見る。テレビに向けられた目はどこかぼんやりとしている。それどころか、視線は徐々に下がり、テーブルの端に寄せられた大学のパンフレットへ落ちていった。

私が迷わせてはいけないとわかっている。
全部わかってる。
行って欲しい。でも、側に居て欲しい。
応援したい。でも、やっぱり一緒に居たい。
...わかってるのに。

「...今日は、帰る...」

章ちゃんはまたテレビをぼんやりと見つめていた。

このままじゃダメだと思った。
一晩中泣きながら章ちゃんの隣で過ごすなんて出来ない。
応援の言葉一つ出てこない上に、章ちゃんを責めてしまいそうな気がしていた。今の私では、章ちゃんを困らせてしまう。呆れられてしまう。このままじゃ、本当に終わってしまうから。

『...ん、送ってく』
「いい」
『ええことないやろ。何時や思てんねん』
「一人で帰りたいの」

章ちゃんは黙ったまま私を見ることはなかった。
さっき私たちは続いていくんだと安堵したばかりだったのに、...なんか、本当に今日で終わっちゃうみたい。
拒否したのも、こんな空気にしたのも私なのに、涙が零れそうでそのままバッグを掴んで章ちゃんの部屋を出た。

一緒に居た時間が長すぎて、どうしたらいいのかわからない。今まで二人で過ごしていた時間を、一人でどうやって過ごせばいいのかわからない。章ちゃんが欠けてできる心の隙間を、どうやって埋めていけばいいのかわからなかった。




翌々日、インターフォンが鳴って玄関を開けると、章ちゃんが立っていた。

「...試験、いつ...?」

部屋に通してコーヒーを淹れ、ソファーに座った章ちゃんの隣に腰を下ろしたところで聞いた。
すると章ちゃんは、やっぱり私の顔を見ずに言った。

『二月。あたま』
「...そっか」

昨日はひとりになって色んなことを考えた。考えてみたけれど、やっぱり私は応援するしかなくて。少しずつ受け入れて、心の準備をしていくしかない。だから精一杯の言葉で応援しようと決めた。

「...がんばってね、」

そう思っていたのに、情けなく声が震えてしまった。涙は昨日、全て出し切ったはずだったのに、目の奥に熱が集まって思わず顔を背けた。

『...ん』

ソファーの隣に座る章ちゃんは短く返事をして、それっきり会話が途絶えた。居心地の悪い空間に不安だけが募っていく。
普段、何話してたっけ。わかんなくなっちゃった。

いつもとは違う雰囲気の章ちゃんは、ここに来てから私と一度も目を合わせないし、口数が少ない。
さっき淹れたテーブルの上のコーヒーはどちらも手をつけられることなく冷めていく。

本当にもう、ダメかもしれないと思った。
章ちゃんが次に口を開く時、出て来るのは別れの言葉のような気がしていた。

何か話さなきゃ。でも何を言っていいかわからない。大学のこと、これからのこと、聞きたいことはたくさんあるはずなのに、何ひとつ言葉にならない。

『なぁ』

前を向いたままの章ちゃんの声にドキリとした。次第に早くなる鼓動が更に気持ちを焦らせる。
章ちゃんの顔は見ることが出来なくて、怖くてどうしようもなくて、自分の手をただただじっと見つめていた。祈るように呼吸を止めて。

『なんか言いたいことあるんちゃうん』

この状況で私に何を言えというの。
“行かないで”?“別れたくない”?
狡い。そんなこと、私が言えないのなんて分かってるくせに。

『俺が先言うてええの?』

どっちにしろ結局いつだって章ちゃんの思い通りで、私はそれに頷くしかないんだから。

黙ったままの私に章ちゃんがちらりと目を向けたのがわかったけれど、やっぱり視線は合わせられなかった。自分の煩い心臓の音がますます私を追い詰める。緊張で強ばった体は、喉が詰まったように呼吸がしにくい。

『...俺ら、まだダメになってへんよなぁ?』

その一言で一気に涙が滲んだ。きつく握り締めた自分の手が、緊張から僅かに震えていた。涙を零さないように噛み締めた唇も、震えていた。

『なんなん、この雰囲気。終わるみたいやん』

苛立ちを含んだような声に安堵していた。一緒に居たいと願っていたのは私だけじゃなかったんだと、漸く確信が持てた。
熱を持った瞼に溜まった涙は、辛うじて零れずに視界を歪ませる。

小さく溜息のような吐息を零した章ちゃんが、少し間を置いてまた私に問う。

『近くに居ってくれる奴しか無理なん?』

...そんなわけない。章ちゃんがいい。章ちゃんじゃなきゃ嫌なのに。

なのに、声が震えてしまいそうで、涙が溢れてしまいそうで言葉に出来ない。だからただ首を横に振った。

『俺は遠くても#name1#がいい』

瞬きと同時に溜まっていた涙が零れ落ちた。章ちゃんがこちらを向いて私の腕を掴み体を揺する。思わず視線を向ければ、章ちゃんの目が零れて行った私の涙を見送って、また私の目に視線を合わせる。

『無理?』

私が小さく首を横に振ったのを見て、腕を掴む章ちゃんの手が少し緩められた。

『我慢できひん?』

同じように小さく首を横に振ると、章ちゃんが片足をソファーに上げ体をこちらに向けて座り直した。

『...俺の事、信じられへん?』

ちらりと章ちゃんを見てから首を振って見せると、章ちゃんの手がゆっくりと私に伸びて来て髪を撫でる。くしゃくしゃと乱すように撫でた後、章ちゃんの腕に抱き寄せられた。

きっと私の態度も章ちゃんを不安にさせていたということに、漸く気付かされた。

縋るように腰に腕を回せば、珍しく優しくぽんぽんと背中を叩いて宥めるから、ますます安堵して、愛しくて、胸が苦しくなる。

どうしたってこの腕から離れたくなかった。距離が離れても、この腕も胸もずっと私のものであるなら、それだけでよかった。

「...寂しいだけなの」

今言える自分の心の中を、ちゃんと知って欲しくて震える声で吐き出した。

「...応援、したいのに、」
『わかってる』

掠れるような声でそう言って、章ちゃんの唇が掬い上げるように私の唇を塞いだ。涙の味の唇を啄んで離れて行った章ちゃんは、視線を合わせるように覗き込み、私を瞳の中に閉じ込める。

『離れてるからいうて、お前を可哀想な女にするつもりないし』

その力強い言葉は、今の私を安心させるのに充分すぎた。
きっと大丈夫だと、今なら自信が持てる。寂しいけど、それは変わらないけれど、きっと私たちは大丈夫。

『せやからお前寂しい言うて他の奴に隙見せんなよ』
「...それは章ちゃんでしょ、」
『...さっき信じられる言うたやん』

不満げに呟いた章ちゃんを見ながらまた涙が零れた。わざと呆れたように見せながらティッシュを数枚取り、私の顔を乱暴に拭う章ちゃんの腰にまた腕を回して縋りつく。溜息を吐きながらもゆっくりと背中に回された腕はいつもよりも優しく私を包み込み、触れた胸から伝わる鼓動で言葉に出来ない想いさえも伝わる気がした。


End.

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