euphoria


甘い棘が胸を刺す


私に“お願いすればよかったかな…”と苦笑いで彼が作ったご飯を一緒に食べて、たわいも無い話をしたら少し気分が落ち着いた。
けれど『お風呂入っておいで』と勧められたら、一気に緊張が高まった。戸惑いは勿論あったし、いくら「先に入って」と言っても『ええから』と返され、バスルームに向かった。

抱き締められて、キスをして。一人になって目を閉じ、思い返してみると、やっぱり現実味が薄いのだ。ここは安田くんの家のバスルームなのに、それでも一人でいれば今日あった出来事は夢の中の出来事のような気がしてしまう。

彼に抱かれることを考えたら、やっぱり少し怖い気がする。セックスそのものではなくて、関係を持つことで、漠然と得るものより失うものが多いように感じるから、不安なのかもしれない。

落ち着いてお風呂に浸かっていられるわけもなくソワソワしながらバスルームの扉を開けると、彼が出してくれたバスタオルの横にTシャツとスウェットが置いてあるのが目に留まった。彼の香りがする服に袖を通してみれば、包み込まれるような安心感で不安は薄れる。

タオルを被ったまま部屋へ戻ると、安田くんの姿が見えない。僅かに香ってきた煙草の匂いでカーテンの隙間から外に目を向けると、空を見上げながら煙を吐き出す姿が目に入る。
窓の前に立ち、薄く開いていた窓をゆっくりと開けると、安田くんが振り返って柔らかい笑顔が向けられた。

『ごめん、風呂入ったのに匂いついてまうな』

何度も会っていたけれど、彼の知らないところはまだたくさんある。

「...煙草、吸うんだね」

笑いながら外に置かれた灰皿で煙草を揉み消し、振り返った彼が部屋に入って来て私の髪に触れた。

『濡れたまま風当たったらあかんよ』

首に掛けていたバスタオルを頭から被せられ、わしゃわしゃと掻き回される。タオルの中で少し赤らめた顔を隠すように俯いていると、ぐっと頭を両脇から掴まれて顔を上げさせられた。半分タオルを被った私をタオルの下から覗き込むように安田くんが見上げる。そして私の赤く染まった顔に気付いたようにふっと息を漏らして笑い、傾いて近付けられた顔が目の前でピタリと止まって離れた。

『煙草、吸うたばっかやった』

笑いながらまた私の髪を掻き回し、バサッとタオルを外すと、彼がバスルームの方へ歩いていった。

こんな少女漫画やドラマみたいなこと、夫にだってされたことはない。それを彼は平気でやってしまうんだから、どうしたってドキドキしてしまう。
火照った顔を冷ますように頬を掌で扇いでも、なかなか冷めてくれないから戻って来た彼から顔を逸らした。

『はい、ドライヤー』
「...ありがと」
『乾かしたろか?』
「...いい、」

からかうように笑いながら私にドライヤーを押し付け、彼がバスルームへ向かった。

一人になった部屋で濡れた髪にドライヤーを当てながらソファーに腰を下ろし、改めて部屋の中を見回してみる。すると、サイドボードの上に置かれた、ひとつの小さな写真立てが目に入った。
安田くんと、夫と、...私。
何年か前に一緒に食事をした時に、突然『写真撮ってください』と店員に携帯を渡した安田くんを、ふたりで笑ったあの時の写真。

...彼は、いつから私を見ていてくれたんだろう。この時から、私を...?
3人で写るその写真の中の私はまだ幸せそうで、あの人も、...幸せそうだった。
見つけなければよかった。今ここであの写真を見てしまったら、胸がざわついて仕方ない。


『なんか飲む?』

はっとして顔を上げると、部屋に入って来た安田くんがキッチンの冷蔵庫へ向かい扉を開けた。

『ワインとかはないけど』
「...ワインなんて普段そんなに飲んでないよ」
『そうなん?意外!めっちゃワインのイメージ!』

無邪気に笑う安田くんは缶ビールを開けながら私を振り返る。

『ビールとぉ、水とぉ、オレンジジュース』
「...水、ください」

はーい、と言いながらペットボトルを取り出しこちらに歩いてきた安田くんが、自分が口を付けた缶ビールを私に差し出す。思わずそれを受け取ると、ペットボトルのキャップを緩めて私に差し出し、私の手から缶ビールを取った。そのペットボトルを受け取って俯く。
...なんか、さっきから子供扱い。...違う。女の子扱い、してくれてるんだ。

なんて事無い顔で隣に腰を下ろした安田くんを横目に、また顔が熱くなって困る。
結婚するまでだってそれなりに恋愛はしてきたのに、こんな気持ちは忘れていた。というよりも、安田くんは私が知っている男の人とは桁違いで“甘い”のだ。だから余計に恥ずかしくなってしまう。彼の言動ひとつひとつが、私の心を揺さぶる。

隣を見遣れば私の視線に気付いて優しい笑みを浮かべるから、現実離れしたこの空間から、ずっと離れたくないと思ってしまう。ずっと、彼と居たい。



『ベッド、行こか』

この部屋に来た時からわかっていたはずなのに、ドキリとした。妙な緊張感で心臓が跳ねる。
隣の寝室へ向かうその背中を見つめて、大きな不安で胸が早鐘を打った。



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