euphoria


奪って抱き寄せて


マンションのエレベーターの前で、安田くんがちらりと私に目を向けた。けれど、目を合わせることが出来なかった。
扉が開いてエレベーターに乗り込むと、さっきから無言は続いているのに、静かな空間にふたりになっただけで急激にソワソワしてしまう。

『...#name1#さん家に比べたら大分狭いで』

首を横に振ったところで扉が開き、手を引かれてエレベーターを降りた。廊下を一歩また一歩歩くにつれて鼓動が早くなる。
安田くんが廊下の突き当たりの部屋の鍵を開けて、私を振り返った。視線が絡むと彼の目が私を見つめて、僅かに表情が硬くなる。
...そんなに不安そうな顔をしてしまっただろうか。確かに今、心は揺れていた。

安田くんがゆっくりと玄関のドアを開けると、抱き締められた時に鼻に残っていた彼の香りが部屋から香る。

...入ってしまえば、きっともう。

立ち尽くす私を見て急かすこともせず、彼はただ私の手を握っていた。
暫く続いた沈黙を先に破ったのは彼の方だった。

『...怖い?』

小さな問い掛けになんとも言えない感情が渦巻いた。
怖い。けれど一緒に居たい。現実を壊すのが怖い。でも、今私を愛してくれる人は、彼しかいないのだ。
...そう思っているのに、なかなか首を縦にも横にも振ることが出来ない。
少しの沈黙のあと、彼が俯いて言った。

『...ごめんな』

彼は私の手を引いて、部屋の中へ引き入れドアを閉めた。
もう一度『ごめん』と呟いた安田くんが、ゆっくりと包み込むように私を抱き締める。

『...ごめん...一緒に居りたい』

こうされてみてからわかった。逃げるつもりなんてなかった。やっぱり私は、こうして強引に奪って欲しかったのかもしれない。曖昧で臆病な私を、構わず自分の物にして欲しかったのかもしれない。

少しふたりの間が開いて、安田くんが首を傾け私を覗き込むように見る。心配するような表情を見せる彼との距離が近くてドキリとした。
すると、彼の手が私の髪を撫でた。ゆっくりと近付けられた顔が数センチを残して動きを止める。私に拒む隙を与えるように。
髪を滑り頬に手が触れゆっくりと包み込むと、反対の腕が私の体を抱き寄せ、柔らかく唇が触れた。

離れて私を見つめたその目には戸惑いに似た色が映り、私の胸を締め付け目の奥へと熱を運ぶ。もう一度唇を触れさせてから私の首筋に顔を埋めた彼が、震えるような熱い吐息を漏らした。潤んだ瞳から涙を零さないように唇を噛み締めて耐えるけれど、どうしたって呼吸は震えてしまう。

キスの瞬間に過ぎった不安は、触れてすぐに幸せに変わった。胸は苦しいけれど、彼を想うが故の苦しさなのだと自分に言い聞かせた。
恐る恐る安田くんの背中に腕を回し抱き締めると、彼が額を首筋へ擦り付けより強く体を掻き抱いた。



『飲み物、何がいい?』
「...あ、大丈夫」
『そ?』

招き入れられたそこは、知っている限り安田くんらしいものが詰まった部屋だった。その部屋の真ん中に位置するソファーに座り周りを見回すと、その所々にまた彼の知らない部分も感じて、何だか擽ったくて少し恥ずかしい。

私のいるソファーへ向かって歩いて来た彼は、浅く座る私を跨ぐように後ろへ座り足の間に閉じ込め、後ろから緩く抱き締める。肩に乗せられた顎が少し擽ったくて身を捩ると、ふふ、と笑ってまた私の体を抱き直した。
早い鼓動が伝わっていたら恥ずかしい。けれど、背中に触れる彼の胸から感じる鼓動も早いのだから、少し安堵する。

『...ほんまはな、ずっと待ってた』
「え?」
『...電話。掛かってくるの、待ってた』

そんな風に思っていてくれたなんて考えていなかった。ただ、私を思い出してくれる瞬間があればいいと思っていたのに、その何倍もの嬉しい言葉に思わず口元が緩んだ。

『掛かって来るなら、先輩と“なんかあった”て事やから、掛かって来ない方がええに決まってるのに、ずっと、待ってもうてた』

今日は色んな事が大きく動き過ぎて頭も心もついて行かない。よくわからないけれど、泣いてしまいそうな程息が詰まって苦しいのは、きっと愛される喜びを思い出したからなのだと思う。

「...ごめんね」
『んーん。わかってるつもり。簡単な事ちゃうもんな』

わかってる...ともう一度安田くんが自分に言い聞かせるように呟いた。
すると頬に唇が触れたから横にある彼の顔に目を向けると、後頭部に添えられた手に引き寄せられキスをした。
ゆっくりと唇を合わせ、愛撫するように唇で食み、目が合えば柔らかく微笑んで繰り返される優しいキスが私の荒んだ心を穏やかに癒していった。



- 8 -

*前次#


ページ: