euphoria


姿を隠す黒いカゲ


自宅に帰ると、真っ暗な部屋にあの人の姿はまだ無かった。それに少しほっとして、インターホンのモニターをもう一度確認する。そこに昨日私を迎えに来た章大の姿は当たり前になくて、少しだけ寂しくなってしまう。

別れてまだ5分。もう会いたいのだ。
さっきまでの章大の掌の温度はまだ残っていて、それが余計に心細くさせる。

玄関のドアが開く音がして小さく溜息をついた。リビングのドアが開き入って来た夫は、小さく『ただいま』と言ったから「おかえり」と返した。

『これ、土産』

ソファーに置かれた“出張のお土産”のお菓子の箱は、すぐそこのスーパーにだって置かれているような商品だ。
あの人はそのまま寝室へ入って行って荷物を片付け始め、ほぼ私の顔を見ることはない。
...私も、同じだった。昨日までは粗捜しをするように顔色まで伺っていたのに、今はあの人の顔を直視出来なかった。
少しだけ、あの人の気持ちがわかった気がする。人は疚しいことがあるとこうなってしまうのかもしれない。

バスルームへ向かった背中を見送って携帯を開く。彼が昨夜、私の携帯に直接打ち込んだ彼の電話番号を表示させて見つめる。名前を登録することは出来ないけれど、章大と繋がっていると思えば強くなれる気がした。

見つめていると受信した名前のないメッセージを開くと、思わず口元が緩む。

“ 帰って来た?大丈夫?”

それに、大丈夫、と返すと、“おやすみ”とすぐに返信がきた。
短いメッセージだって充分だった。今までの生活にはなかった心の癒しが、今は出来たのだから。



“ 明後日、会う?”
金曜の昼間に届いたメッセージに心が踊る。
“居なかったら、会いたい”
そう返信してから考える。やっぱり章大は、きっとあの人の相手や行動を知っているのだ。だからこうして、恐らくあの人が居ないであろう日を指定してくるのだ。

“ また夜連絡するー ”

携帯を閉じて、複雑な心境になっている自分に気付いた。

夫のことは諦めているはずなのに、今の私には章大がいるはずなのに、どうして夫の不倫のことを考えると苦しいのだろう。確かにそこには“どうでもいい”では片付けられない気持ちがあって、その感情はなんなんだろう。章大と関係を持つ前から繰り返し自問自答してみても、よくわからない。
確かに私は章大を愛していて、一緒に居たいのに。
私の心は、どこにあるのだろう。

『日曜出掛けるわ』

帰宅した夫の言葉に、また心にモヤモヤしたものが渦巻く。やっぱり章大はきっと知っているのだ。

...友人と会うのかもしれない。夫婦でいちいち誰とどこに行くかなんて報告して欲しいわけではないし、そんな事まで探る必要はない。
...章大に会えるんだ。だったらそれでいい。余計な事は考えないで、ただ一緒に居られたら、それでいい。



“ 迎えに行こか?1人で来れる?”
“ 大丈夫。もう覚えた ”

夫が出掛けてすぐに家を出た。
前に章大が家に来た時に気に入っていたケーキを買うために迎えを断った。
少し遠いけれど、あまり2人で歩き回るのも気が引ける。

ケーキ屋の扉を開こうとすると薄くドアが開いたから一歩下がって待つ。『すみません』と言ってケーキの箱を手に中から出て来た女性が、私の顔を見て一瞬動きを止めた。どこかで会ったような気がして会釈すると、私に会釈を返して女性が足早に歩いて行った。

すると、頭の中に黒のドレスを着たさっきの女性が浮かんだ。数年前に一度だけ出席したことのある夫の会社主催のパーティーで、夫に紹介された子だと思い出した。あの人が『指導係になったんだ』と私に彼女を紹介すると、さっきのように軽く頭を下げて微笑んでいた。

...嫌な予感がした。さっきの驚いたような彼女の表情と、逃げるように足早に去って行った後姿。
...もしかしたら、あの子が。

気付いたら、折角行った店にも入らずに章大のマンションに向かっていた。何も確信があるわけではないのに、鼓動だけが早くなり、動揺していた。

インターホンを押してドアが開き、笑顔で私を迎えた章大の表情が一瞬で曇る。

『...どうしたん』

どうしたと言われても、私は心配される程わかりやすくおかしいだろうか。
やっぱり彼は、きっと全部お見通しなのだ。

『なんかあった?』

私を抱き寄せて玄関へ引き込みドアを締めると、腕の中に包み込みポンポンと宥めるように背中を叩く。

「あの人が指導してた人、」

ぴたりと背中を叩く手が止まった。

「...に、会った...さっき、」

また一定のペースで章大の手が背中を叩く。けれど、何だか落ち着かなかった。

『あぁ、新田さん?』
「...そう、かな...多分...」
『ふーん、そうかぁ』

暫く黙っていたけれど、章大はそれ以上何も聞くことはないし、自分から話すこともなかった。ただ私を抱き締めて、子供を寝かし付けるみたいに背中を摩っていた。

章大は、彼女があの人の相手だという確信はくれなかった。本当に違うのか、それとも私が何も言わないから黙っているのかわからない。
聞きたいのか、聞きたくないのかもわからない。
この前のように純粋に幸せな気持ちで彼の体温を感じることが出来ない私を、章大はただ宥めるように抱き締めていた。



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