体温が溶ける幸福
今週末は夫から『出掛ける』という言葉が出ないからソワソワしていた。
...会えない...かな、今週は。
ここ最近の自分は、自分でも驚く程に彼一色になっている。1日の大半、彼のことを考えている気がする。
金曜日になっても、土曜日になっても、夫からその言葉は出て来ない。その上、土曜日の昼間に起きてきてソファーに転がっている夫を見て、小さく溜息を零す。
“出掛けてくる”
私から言ったっていいはずなのに、それをしてしまうのが怖かった。嘘をついて彼に会いに行くことを自分自身が許してしまったら、歯止めが効かなくなる気がして言い出せない。
今、何してるんだろう。けれどよく考えてみれば、休みの度に私と会っていたら、彼自身の時間がないのだ。...だから、たまにはこれでいいのかもしれない。...と、無理矢理思うことにした。
一日中ゴロゴロとしていた夫を横目に、夕飯の買い物に外へ出る。わざと少し遠回りして、最初の日に章大と待ち合わせしたあの道をわざわざ通ってみる。その先を曲がっても、彼はそこにはいないのに。わかっているのに、彼を探してしまう。
『...あ、こんにちはぁ』
スーパーの中で慌てて振り返れば、章大が笑っていた。あの日のことを、スーパーの前で会った日のことを、ぼんやりと思い出していたから驚いた。
『先輩は一緒ちゃうんすね』
「...うん、家にいる...」
他人行儀な敬語に少し居心地の悪さを感じる。けれど、確かに周りに人がいる所で会うと、何だか少し落ち着かないのは、私も同じだ。ちらりと章大を見遣れば、表情を崩して嬉しそうに笑みを作っているから、やっと私も少し口元を緩めた。
『会うたりせぇへんかなーとか思ててんけど、』
章大が周りを見回してから私に視線を向けて、ふにゃりと笑って俯いた。
『...嬉しいもんやね』
呟くように小さな声で言った。その表情を見ていたら、思わず手を伸ばしたくなって、きつく拳を作って耐えた。顔を上げた章大が私をちらりと見てまたふっと笑うと、少し距離を詰めて小声で言った。
『...明日、来おへん?』
伺うような上目遣いで私を見る章大から目を逸らす。
...わかってるんでしょ。誘われたら、私が断れないこと、知っててそんな顔で誘うんでしょ。
『今週は我慢しよう思ててんけど、会ってもうたら、...やっぱあかんな』
私の心を見透かしたように追い討ちをかけるんだから狡い。
迷うことなんてなかった。きっと私は、最初からその言葉を待っていた。嘘をついて家から出ることは変わらないのに、章大に求められるだけでその嘘さえも正当化してしまう。
「......行く」
『...言える?大丈夫?』
小さく頷いて見せると深くなる笑い皺が愛しい。本当に嬉しそうに、幸せそうに浮かべるその笑顔のためなら、何だってしてしまいたくなる。
『夜飯は?』
「...食べてくる」
『...お前じゃなくて。』
翌日、家を出る前に聞かれたのは、誰とどこに行くか...ではなく、自分の夕食の心配だった。
「...適当に食べてくれる?」
私を見ないその横顔は、不機嫌さを滲ませていた。それは、自分を気にかけてくれないという不満ではなく、私が“仕事”をサボることに対する不満なのだと思う。
いってきます、の声に返事もないけれど、早くこの空間から抜け出したくて、早く章大に会いたくて、逃げるように家を出た。
携帯を取り出して章大にメッセージを送ろうとしたけれど、その時間さえ惜しくて、バッグに携帯を押し込み足早に章大のマンションへ向かった。
インターホンを押すと、少しして開いたドアの向こうから章大の手が私の腕を掴み、玄関へ引き入れる。ドアが閉まるよりも早く唇を奪われて、後ろでドアが閉まった。抱き寄せながら章大が鍵を掛け、少しの隙間も埋めるように唇をぴたりと合わせる。気分を高めるように体に掌が這い、撫でながら甘く絡む舌に、脳までも溶かされてしまいそう。
『上手く騙せた?』
唇が触れ合う距離で章大がふざけたようにふっと笑った。
「...騙すって大袈裟じゃない?」
『そ?』
もう一度唇をくっつけてから腰を抱かれ部屋に入ると、包み込むように抱き締められて目を閉じた。首筋に落ちる幸せそうに吐き出された熱い溜息も、私の胸を高鳴らせた。
くっついた胸から感じる鼓動も体温も、私を抱く腕も、どうしてこんなに私の心を落ち着けてくれるのだろう。この心地良さに溺れてしまった私は、もう彼から離れられない。ずっと触れていたい。
自分から彼を求めるように首の後ろに腕を回し見上げれば、その優しい目が私を映して細められ、柔らかくキスを落とした。章大の唇を軽く食んで誘えば、その唇が弧を描く。
『...したいん?』
「...ダメ?」
『んーん、抱きたい』
元々セックスが好きなわけではなかった。自分から誘ったりしたことは今までなかったし、章大が初めてなのだ。ずっと、恥ずかしいことだと思っていた。
章大と出会ってから、肌を重ねることでしか得られない極上の幸せも確かにあるのだと知った。柔らかく体を溶かすような幸福感は、キスをして抱き合って、彼と繋がって感じることでしか得られないものなのだから。
- 15 -
*前次#
ページ: