euphoria


恋水は儚く散った


『こんばんはぁ』

スーパーの前でビクリとして振り返ると、食材が入った買い物袋を手に安田くんがニッコリと笑って立っていた。

「...びっくりした、」
『俺もびっくり。外で会うの初めてですね』
「...スーパーとか、来るんだね...」
『そりゃ来ますよぉ。ひとりもんですしね』

あの日から一週間が経つけれど、いざ会ってみるとやっぱり前とは違う感覚。あの人の後輩だということも忘れそうなくらい、彼は完全に“私が想う人”になっていた。
今彼を前にして、またその想いが膨らもうとしているのを感じて、少し怖くなる。

『先輩、一緒じゃないんすか?』
「うん、今日はいないから」
『...そうなんすね』
「...あ、今日も...かな」

またこんな言い方して、心配して欲しいわけではないのに、同情されるのだって嫌なのに。最近は妙に卑屈で困る。
笑みを崩さず私を見ている安田くんから、私の方が先に視線を逸らした。

いくらなんでもこんな所で立ち話をしているわけにもいかないから、顔を上げて安田くんを見る。

「じゃあ『じゃあ、飯、行きません?』

私の声に被って安田くんが言った。
思わず目を丸くすると、彼が視線を道路の向こう側の店に向け指を差す。

『イタリアンの店、出来たの知ってます?いつもご馳走してもろてるし、たまには俺が』

まさかそんなことになるとは思っていなかったから戸惑う。躊躇いと嬉しさが混ざり合った何とも言えない気持ちに戸惑っていると、安田くんが言葉を続けた。

『どうせお互い一人なんやし、先輩に言うたら問題ないでしょ?たまたま会うたからーって』

首を傾けて私を覗き込むその柔らかい表情に、心が惹かれて苦しくなって、思わず頷いた。
それを見てより深くなる笑い皺が愛しくて堪らない。

『俺メールしますね』
「...あ、大丈夫、...私が、」

バッグから携帯を取り出すと、不在着信を知らせるランプが点滅していた。開いてみれば、表示されたあの人の名前にすぐに気分が落ちる。受信していたメッセージを開くと
“帰る。飯ある?”
と表示されていたから携帯を握り締めて唇を軽く噛んだ。

「...ごめん、今から帰って来るんだって。...ご飯作んなきゃ、」

自分でも驚く程に落胆していた。いつもいつもあの人には振り回されてばかり。
落胆と苛立ちと、一瞬で期待を打ち砕かれたのとで、何だか泣き出してしまいそうに鼻の奥がツンとする。けれどそんなところを意地でも見せるわけにはいかないから、口角を持ち上げて安田くんに言った。

「...ほんっと、いつも勝手で困る」

黙って私を見つめていた安田くんが、ふっと笑って私の愚痴に頷いた。
上手く誤魔化せているだろうか。今のこの溢れそうな気持ちも落胆も、全部彼の目を誤魔化せていたらいいのに。

『...じゃあ、家まで送りますね』
「...大丈夫だよ」
『んーん、もう暗いし 』
「................、」
『...俺が、そうしたいから』

思わず俯いた。じわりと滲んでしまった涙を隠すために、不自然な程顔を背ける。そうするしかなかった。そうしてでも隠さなければいけなかった。
ドクドクと大きく鼓動する心臓が目の奥に熱を運んで余計に私を追い詰める。

少しの沈黙の後、手にしていた買い物袋がするりと持って行かれて、安田くんが歩き出した。俯いたまま彼の後ろをついて行くけれど、何も弁解するような言葉は思い付かない。
安田くんは、何も言わなかった。ただただ私の前を私の歩調に合わせてゆっくりと歩くだけで、私の顔を覗き込むことも、私を振り返ることすらもしなかった。

何度も深呼吸を繰り返して、涙はなんとか止まった。けれどきっともう気付かれている。私の想いに。

「ありがとう、荷物」
『全然』

家の前で受け取った買い物袋に視線を落として、出来るだけ明るい声色で言った。

「またご飯食べに来てね」
『ん、勿論行きます』
「...じゃあ、」

精一杯の笑顔を向けてから彼に背を向けると、突然手を掴まれたから驚いて振り返る。思いの外近距離で私を見つめたその目に言葉を失っていると、彼の手が私の掌へ何かを握らせた。

『...なんかあったら、いつでも』

私の掌をぐっと閉じて口角を上げると、すぐに背を向けて足早に立ち去る。その背中を見つめてから掌をゆっくりと開くと、手の中に握っていたのは、あの人と同じデザインの彼の名刺だった。



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