euphoria


ダーク・ヒーロー


自分の手帳に挟んだ彼の名前を、何度も何度も開いて見ていた。
迷いはなかった。きっと電話を掛けてしまえば止められなくなってしまうから、だからこうして閉じ込める。握っていた事でくしゃりと折れ曲がったその名刺を、御守りのように大事に眺める。歪んだ名刺さえもその手の温度を思い出すようで、彼を想っていた。



夜中に私が眠るベッドにいきなり倒れ込んで来た夫は、強引に私にキスを仕掛てきた。職場の飲み会から帰って来たこの人からは酒と煙草が強く香って思わず顔を顰める。

荒い吐息を漏らしながら絡み付くようなキスを繰り返し、首筋に舌が這ったかと思えば、耳の下辺りを吸い上げられてチクリと痛みが走る。
この行動に、違和感を感じていた。
ここ数ヶ月、セックスはしていない。元々こんな情熱的なキスをする人ではなかったし、ましてや所有印を残すなんて。きっと私を誰かと間違えているのだ。

拒むこともせずに、ただされるがままに抱かれた。他の女を抱いているであろうこの腕に抱かれるのは嫌悪感しか感じない。
この人の代わりに彼を頭の中に浮かべたけれど、嫌悪感は消えなかった。浮かぶ彼の顔は笑顔ばかりなのに、涙が零れた。快感なんてなかった。ただただ、揺さぶられながらこの人が果てるのを待つだけ。


翌朝目覚めると、私に背を向けて眠るその隣から抜け出した。昨夜の行為後、全裸のまま眠りについたこの人の背中に冷ややかな視線を投げる。
するとそこに、いくつかの細く赤い傷跡が付いているのを見つけ、急いで寝室を抜け出しバスルームに向かった。

熱いシャワーを浴びながら、早い鼓動のせいで息が荒くなる。
...わかっていたはずだった。あの傷は誰かの爪痕で、あの人が誰かとセックスをしているなんて、わかっているはずだったのに。それなのにこの感情はなんなんだろう。
私はあの人にまだ愛情があるのだろうか。この苦しい気持ちは一体どんな感情なのか。こんな時に浮かぶのは彼の顔なのに、どうして目の奥が熱いのだろう。

まるで昨夜の行為がレイプだったかのように心が痛んで、シャワーを頭からかぶったまま立ち尽くした。


一人で簡単な昼食を済ませコーヒーを啜っていると、やっと起きて来た夫が私をちらりとだけ見て『おはよ、』と言った。挨拶を返すけれど、昨夜のことは覚えていないといった様子で、私を伺いながらバスルームへ向かった。


『飯いいわ。後でちょっと出掛ける』

シャワーから出て来たばかりの上半身裸の背中をちらりと見て、逃げるように目を逸らした。
適当に返事を返すけれど、クローゼットを漁るあの人の耳にはきっともう届いていない。

その時インターホンが鳴り、モニターを確認する前に寝室から声がした。

『安田だと思う。ちょっと出て』

突然の出来事にドクリと心臓が脈打った。

『おい、聞いてる?メロン届けに来るって言ってたから、早く出ろよ』

ダイニングテーブルから立ち上がって、隣の部屋でその傷跡を晒したまま服を漁るその背中を横目に玄関へ向かう。
少しの緊張と、気恥しさ。小さく息を吐いてドアを開けると、私を見て安田くんが笑顔になった。

『こんにちはぁー...あれ、先輩います?』
「...あ、うん。今着替えてて、」
『これ!メロン貰て、でも俺一人やし、お裾分けに...』

そう言っているうちに後ろから来た夫が安田くんが持つメロンを受け取ってお礼を言った。私も続いて「ありがとう」と言えば、それに被るように夫が言った。

『悪いけど俺もう出掛けるから、お前家で食べてけば?』

思わず安田くんから目を逸らした。私の横にいるこの人に、顔が見えていなくてよかった。今の私は、きっと動揺を隠し切れていないから。

『じゃあ奥さん、半分こしましょ!』

首を傾けて私に笑顔を向けた安田くんに、残しとけよと文句を言う夫の声を聞きながら、ぎこちない笑顔を返す。
突然訪れたふたりきりの時間に、想像以上に緊張していた。

奥に入って行ったあの人に続いて家に上がった安田くんが私をちらりと見て笑みを作る。その背中を見ながらリビングへ入ると、準備をするために寝室に入ったあの人の背中を安田くんの視線が追った。

程なくして寝室から出て来た夫が安田くんに声を掛けて玄関へ向かう。立ち上がった安田くんを横目に、その場から動かずに「いってらっしゃい」と小さく言葉を投げると、安田くんの目が私に向けられた。

『...見送らないんすね』

玄関でドアが閉まる音がするとすぐに安田くんが私に言った。それに笑って頷くと、安田くんが『あ、』と声を上げた。

『鍵、落ちてる』

彼の視線を追って寝室のドアの前に転がるあの人のキーケースを拾い上げると、その鍵に目が止まった。家の鍵、車の鍵、もうひとつの見覚えのない鍵。それを見つめていたら玄関のドアが開いて私を呼ぶ声がした。

玄関へ向かえば私の顔なんか見ずに、『ありがとう』と鍵をひったくってまた玄関を出て行った。

背中の爪痕にどこかの部屋の鍵。続く時は続くものだと、立ち尽くしたままぼんやりと思う。続くも何も、私が気付かないだけで今までにもそういう“ヒント”があったのかもしれない。

『大丈夫ですか...?』

はっとして振り返れば、私を伺うように安田くんがリビングのドアから顔を出していた。
うん、と笑顔を向けてリビングへ向かい、メロンが入った箱に触れる。

「これ、切るね」
『あ、俺はええから、ふたりで食べてください』
「でも、せっかく、」

言い掛けたところでソファーに座る彼に腕を掴まれ、驚いて心臓が跳ねる。座ったまま私を見上げるその目が、いつもよりも鋭くてドキリとした。

「...どうしたの、」
『ずっと黙ってるつもりですか?』

何が、なんて聞かなくてもわかる。
私が気付いていることをあの人に言わないのかということ。
きつく掴まれた腕から熱が回るように体が熱くなる。

「...言ってどうなるの...?」

本当にそう思っていた。
別れたいのか続けたいのかわからない。あの人に対して愛情があるのか、ないのか、それすらもわからないのに。

安田くんの手が私の腕からするりと離れて、視線が逸れた。ふっと笑った彼はいつもと違う笑みを浮かべていて、その心の中を探りたくなってしまう。

『...まだ、愛情あるんすね』
「...まだって、」

...そんなのわからない。どうしてそんなことを言うの。
私はどこかで、この気持ちが愛情ではないと思いたかったのかもしれない。

『やめてまえばええのに』

面白がるように笑って見せた彼の横顔を見て、チクリと胸が痛む。この痛みの正体も、私にはわからない。次第に胸が苦しくなっていくのを、自分の手を握り締めて耐えた。

「...簡単に言うね」
『...だって、しんどそうですもん』

私に向けられた視線から逃げるように視線を外して笑みを作る。
彼はやっぱり私を...なんて都合の良いように思っていたけれど、本当は違うのかもしれない。

「ふふ、同情?」
『あは、同情なんて綺麗なもんちゃいますよ』
「...え?」

同情が綺麗だとする彼の返答に思わず首を傾げる。私をちらりと見て顔を背け笑った彼の横顔は、まるで知らない男の人のようだった。

『来たらええのに。俺んとこ』

頭の中にあったごちゃごちゃしたものが、一瞬にしてどこかへ吹っ飛んでいった。ただバクバクと激しく音を立てる心臓の音だけを聞きながら彼の横顔を見つめていた。すると、ゆっくりと私を見上げた安田くんと視線が絡んで、徐々に頭の中が正常に戻って来る。

私をじっと見つめるその目を見ていたら、ぼんやりと彼が歪んだ。正常に戻ったはずだった頭の中の何かが壊れてしまったみたいに涙が溢れて頬を流れ落ちた。

「...出来ないよ、...」

子供のように震えた涙声が恥ずかしい。立ち上がった安田くんは、私の手を取って引きソファーへ座らせると、その隣へ座ってきつく握っていた私の拳を解き、指を絡めた。

『悪者んなれるで、俺』

安田くんは笑っていた。けれど冗談ではないことくらいわかる。絡められた私の指を力を込めて握る手から彼の心が伝わるような気がして、その手を握り締めていた。



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