孤独が彼を求めた
安田くんは、私を追い詰めるようなことはしなかった。ただ私の手を握り、黙ったまま私が落ち着くのを待ってくれた。
けれど少し冷静になってくると、次第に怖くなる。このままではこの手を離せなくなってしまう気がする。
「...ごめんね」
安田くんの指を解いてティッシュを顔に押し当てながら言った。
まだいつもより早い鼓動は、きっとさっきの安田くんの言葉のせい。戸惑う気持ちの中に、確かに嬉しい気持ちは存在していて、その気持ちが私を焦らせる。
『...あんな事言うてもうたからアレなんすけど...心配で。ほんまに』
それはわかってる。あの人が何をしているとか、相手が誰なのかとか、あの人の事で核心をつく話を安田くんは一度もしてこないのだから。
本当は知っているのかもしれない。相手も、事情も。だからこんなに心配してくれるのかもしれない。
「...大丈夫、ありがとう」
『...大丈夫なことないやろ』
その声が少し苛立ちを含んでいる気がして彼にちらりと視線を向ける。
目が合うと、すぐに逸れた目は伏せられて口元に笑みが浮かぶ。
彼の本心がわからない。いつだって私を惑わせる言葉を冗談のように笑って言うんだから。本当に冗談なのか、私に逃げ道を与えるためにそうしているのか、わからない。
“ 悪者んなれるで、俺 ”
ただ、さっきの言葉は後者のような気がしていた。あの場面で、冗談には聞こえなかった。...そうであって欲しいと思ってしまった。
ここから抜け出す勇気もないくせに、勢いに任せて飛び込んでしまいそうで戸惑う。怖いのに、一緒に居たい。
同情ではないと言った彼の言葉を信じたい。
私はどうしたらいいのだろう。あの人にやめてと言えれば楽になるのか。彼に逃げてしまえば楽になるのか。
...きっと、どちらにせよ楽になんかならない。
『...先輩、飯食うてくるんでしょ?今日こそ行きません?飯』
優しい声色に戻った彼を見上げると、困ったように眉を下げて彼が笑う。
『...あは、目ぇ赤いけど、いけるかな』
「...行く」
私の回答に笑顔で頷くから、なんとなく照れくさくなって俯いた。すると彼の手が私の頭をポン、と撫でるから胸がトクリと鳴った。
『あ、ごめんなさい』
すぐに手は離れて行ったけれど、顔を上げられずにそのまま俯いていた。
今のは狡い。突然そんな事するなんて、狡い。
いい歳になってこんな事で顔を火照らせる日が来るなんて思っていなかった。本当に、恋みたい。
夫の後輩。それだけなのに、ふたりでいるとそんな事は頭の片隅にもなくなっていた。食事をしながらたくさん話をしたけれど、安田くんは一度たりともあの人の話題を持ち出さなかった。だから嫌な事は忘れて、彼だけで満たされていた。さっき零した涙のことすら忘れて。
外食をするとあの人に連絡しようかと思ったけれどやめた。どうせ帰りは遅いのだから、言う必要も無い。私のことにきっと興味もないのだろうから。
別れが近付いているかと思うと、急に現実に引き戻される。レストランの窓から見た景色はいつもの近所の風景で、当たり前の事なのに一気に気分が下がる。目の前の安田くんは相変わらず楽しそうに話をしてくれているのに。
『...そろそろ出る?』
前よりも少しフランクに接してくれるようになり、敬語もだいぶ減った彼の言葉に頷いた。...頷くしかなかった。
“まだ一緒に居たい”
そんな現実離れした言葉を彼に発することは出来ないのだから。
「あ、」
『あ、大丈夫。今日は俺が』
「...ありがとう」
『先外出ててください』
ご馳走様とレジの前で頭を下げて外に出ると、手に持っていた携帯が震えた。画面の上に表示されたポップアップにはあの人の名前が記されていたから、また少し心が曇る。開いたメッセージを見つめたまま、動きが止まった。
『あ、先輩から?』
「...............。」
『俺と居る言うた?なんやって?』
財布を仕舞いながら、画面を見つめたままの私に気付いて安田くんが私を覗き込む。画面から安田くんに視線を向けると、キョトンとして私を見る彼の腕を掴んだ。
「...もうちょっと」
『え?何、』
蚊の鳴くような私の呟きに、安田くんが顔を近付けて聞き返す。早い鼓動の理由はなんなのか、よくわからない。
「...もう少し、」
『うん』
「一緒に居て、」
私を黙って見つめた安田くんが、携帯を持つ私の手を掴んで覗き込んだ。
“今日友達んとこ泊まるわ”
安田くんがあの人からのメッセージをただ真っ直ぐに見つめてから画面を消して私のバッグに携帯を押し込むと、私の手を引いて歩き出した。
ぎゅっと私の手を握った彼の掌に力を込めることは出来なかった。一緒に居てと言ったのは私だけれど、やっぱりこうされると戸惑ってしまう。近所なのだから、誰かに見られているかもしれない。もし知っている人に会ってしまったら。
それでも、包み込まれた手はまるで彼に守られているようで、その手を離すことは出来ずにただ引かれるままに彼の後について歩いた。
ふたり無言のまま、ただ歩いていた。あんな事を言ったのに不思議と落ち着いている。斜め後ろから風に揺れる彼の髪を見つめて、繋がれた手に視線を落とす。
「.....どこ行くの」
『...んー...どこやろ』
笑って振り返った安田くんはすぐに前を向いてしまった。もしかしたら、やっぱり彼にも戸惑いがあるのかもしれない。
『どこ行きたい?』
そんなのわからない。
彼とふたりで、どこへ行けるんだろう。
『...俺ん家、とか?』
顔を上げると同時に安田くんが振り返って私を見た。まるで冗談を言うみたいに。心の読めない笑顔を浮かべた彼は、その真っ直ぐな瞳の中に私を閉じ込めた。
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