euphoria


彼のその手も声も


『...なーんて、嘘やけど』

俯いて笑う彼を見て、少しの安堵感があったのも確かだ。
自分でもなんとなく思う。きっと私は彼に誘われたら、拒めない気がするのだ。不安な気持ちに紛れて、どこかで誘われるのを待っている気持ちがあるような気がする。自制心が薄れて、彼と居ることを望んでいる。

繋がれた手に視線を落とすけれど、温もりはあるのにどこか現実的ではない気もする。他人事のような、ドラマでも見ているかのような感覚に近い。
自分の感情がよくわからない。

けれど、今の状況を冷静に考えてみると、たまらなく怖くなる。例えば、繋いだ手を引いて抱き寄せられてしまえば、きっと彼から離れられなくなってしまう。

コロコロと変化していく共存するふたつの気持ちに自分でも戸惑うけれど、今握られているこの手を振り払うことが出来ない。
これは、他人事なんかじゃなく、現実だというのに。

安田くんがまた振り返って笑みを浮かべる。視線を逸らして俯き、口角を上げたまま彼が呟くように言った。

『...ごめん、やっぱ...帰ろか』

足を止めてもう一度私を見た彼の手がするりと解けていった。温もりを無くした手は何だか妙に寂しくなって、自分の手を自分で包み込んだ。

『...俺、自信ない』

その言葉が意味するのは、私達の関係の事なのだろうと思った。
...それでいい。戻れなくなってからでは遅いのだから。

そう思っているのに、こんなに鼓動が早いのはどうしてだろう。

『...拒んでくれんとさ、止められる自信ないねん、俺』

安田くんの横顔から思わず目を逸らして俯いた。
...知りたくなかった。知らないままでよかったのに。そんな言葉を聞いてしまったら、心が揺れてしまう。安堵したはずだったのに、手を伸ばしたくなってしまう。彼の心が欲しくなってしまう。

『送りますね』

私にいつものように少し幼い笑顔を見せた安田くんが、俯いてゆっくりと歩き出した。その背中を見つめてから、彼を追う。

さっきの安田くんの言葉がリフレインして鼓動は早いまま鎮まる気配はない。
...どうしよう。胸が苦しい。その背中を見つめるだけで泣きたくなる程想いが膨らむ。だから、あんな言葉、いらなかったのに。

帰るのを渋って拗ねる子供のように、ゆっくりと彼の後ろを歩いた。
本当に子供みたい。私は彼に連れ去って欲しいのだろうか。本当にそんな事が現実になってしまったら、これからどうなるのだろう。
きっと、今の私はただ夢を見ている。誰かに愛されることを夢見るだけの、現実逃避。その相手が、たまたま近くに居た安田くんだっただけ。...きっとそう。

安田くんとの間に少し距離が出来ると、彼が振り返り私を見て歩を緩めた。
あの人ならきっと、どんなに離れても私を待つことはないんだろう。早くしろよと舌打ちして、苛立つんだろう。

俯いた視界に、こちらにつま先を向け立ち止まった安田くんのスニーカーが入ってきて顔を上げた。
私を見つめた瞳に胸が高鳴る。
すると、安田くんが困ったように笑って私に手を差し出した。

その手を見つめてから彼に視線を移し、手を重ねた。指を絡めるように手が繋がれ、引かれてまた歩き出す。

...この手が、私のものだったらよかったのに。どうしてこの人ではなかったんだろう。あの人とは関係のないところで、あの人よりも早く出会えていたら。

たった数十分の駆け落ちは、早くも幕を閉じようとしていた。最早、駆け落ちなんて大袈裟な言葉。夢見ただけで、叶えられるはずなんてないのだから。
彼は空を見上げていたけれど、私は俯いていた。現実に戻って行くのがたまらなく憂鬱で、繋いだ彼の指をぼんやりと眺めていた。

“止められる自信ないねん”
会話もなく、聞こえるのは大通りの車の音だけで、さっきの言葉さえも現実に彼が言った言葉ではなかったかのような気すらしてくる。

自宅近くまで来ると、彼の手がするりと離れて行った。やっと顔を上げて彼を見れば、また困ったように笑って目を逸らす。そして随分と声のボリュームを落として言った。

『...帰りたくなくなるから、そんな顔せんとってよ』

その言葉は私を再び夢の中へ引き戻そうとする。けれど、彼はここで、この家の前で、私に触れてくれることはないのだろう。

『おやすみ、#name1#さん』

柔らかい笑みを浮かべてくるりと背を向け、彼が歩き出す。その背中を引き止めることが出来たら私は幸せになれるだろうか。彼が初めて私の名前なんて呼ぶから、 胸の痛みに唇を噛み締める。見えなくなるまで見送った背中がこちらを振り返ることはなかった。



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