euphoria


心臓だけ理解した


平凡な日常、なんて私にはなかった。
自虐的に言えば、刺激的。夫の携帯に掛かってくる電話も、スーツから微かに香る女性物の香水の香りも、背中の爪痕も全て、平凡ではないのだから。

安田くんには、やっぱり連絡出来ずに居た。彼に手を伸ばせば、ますます平凡なんて遠くなるのだ。
彼の言葉を思い出しては目を閉じるけれど、どうしたって彼の顔がぼやけて、浮かんできてはくれない。
それでも彼の事を考えていた。会いたくて、彼の手に触れたくて、青春時代の初恋のように胸は日に日に苦しくなる。



『今週末出張だから』

そう言われても、疑ってしまう。今までにも“出張”はあったけれど、今の状況では素直にそうは思えない。
ぼやけた安田くんの顔が浮かんだけれど、やっぱり連絡をするという選択肢はすぐに消えた。
あの人が居ないから彼に会う...なんて、これじゃああの人と同じなのだから。

けれど、夫の居ない家に少しほっとするようにもなっていた。あの人が居ると女を匂わせる“ヒント”を探してしまう。知りたいわけではないのに。知らない方がいいに決まっているのに。
居なければほっとするけれど、今どこで何をしているのかをふと考えてしまう瞬間があるから、結局どちらにしたって大差はないのだ。

玄関で靴を履く夫を上から下まで観察して目を逸らした。
“粗捜し”が最早癖になっていて自分で自分に呆れる。

「...いってらっしゃい」
『んー』

行ってきますも言わずに玄関を出て行ったあの人に、怒りとか悲しいとかいう感情はない。もう諦めていた。

引き出しの奥に仕舞った手帳を開いて、名刺の彼の名前を眺める。
もしあの人が本当に出張だとしたら、彼も一緒だったりするのだろうか。今、何をしてるんだろう。どこにいるんだろう。...こうして私が彼を想うように、彼が私の事を思い出す瞬間はあるんだろうか。

きっと自分で手繰り寄せれば近い距離。けれど手繰り寄せた彼は、沢山の感情や現実を引き連れてくるのだろう。それを全て受け止められるだけの強い心は、私はきっと持っていない。



向こうでオレンジ色の空が夕闇に次第に飲み込まれて行くのをリビングの窓からぼんやりと見ていた。
するとインターホンが鳴ったからすぐそこのモニターに視線を移すと、時間が止まったように動けなくなった。
そこに映っていたのは、安田くんだったから。

一気にバクバクと暴れ出した心臓に急かされるように玄関に向かう。僅かに震える手で鍵を開けドアノブを押せば、安田くんが私を見て柔らかく笑った。

『...先輩、居る?』
「...どっか行った」
『...出張、ちゃうの?』

自分で聞いておきながら、安田くんが困ったように笑うから、目を逸らして俯く。

「...出張...なの?」

もう一度彼に目を向ければ、同情なのか、切ないような何とも言えない表情を浮かべて私を見ていた。安田くんがドアを押さえたから手を離すと、玄関に入ってきた彼が後ろ手にドアを閉めてから私に手を伸ばした。

『...会いに来てもうた、我慢出来ひんくて』

ゆっくりと肩を掴んで引き寄せられ、彼の腕の中に抱かれた。今までとは違う胸の苦しさに襲われて、呼吸するのさえもままならない。幸せなのか絶望なのかよくわからない。目の奥が熱くて目を固く閉じた。

彼は、あの人がどこにいるのか、きっと知っている。出張ではなく、どこで何をしているのかを知っている。だからこうしてここに来たのだ。彼は言わないけれど、そういう事なんだろう。

心地良い体温に包まれて、動けずにいた。彼が私を離さないまま玄関の壁に背を預け、緩く抱き締めながら顔を覗き込む。その顔が幸せそうに笑みを浮かべていて、胸がきゅっと締め付けられた。

『...俺ん家、行こ』

彼の笑顔しか見えない狭い世界で、現実は一瞬で麻痺した。目を逸らして頷いた私の体を、彼がまた抱き寄せた。

『今日も、明日も、...一緒に居よ』

...あの人も、最初はこんなものだったのかもしれない。現実なのかそうじゃないのかよくわからない夢のような感覚の中で、引き寄せられるみたいになんとなく関係を持ってしまったのかもしれない。
少なくとも今の私は夢の中に居るようで、ぼんやりとしたまま彼に抱き締められているのだから。心臓だけは今の状況を理解しているみたいに、早いビートを刻んだままだけれど。


安田くんを部屋に招き入れて、必要なものだけ簡単に準備をする。
安田くんはインターホンのモニターを見ながら、自分が映る履歴を削除した。

『...出来た?行こっか』

小さく頷いて安田くんを見ると、笑みを浮かべて私の頭にポンと手を置く。

『俺、先出てあの角で待っとくし、少ししたら来て』

頭の手が離れてもう一度頷く。
私達はそういう関係なのだと実感させられて、部屋を出て行った彼の背中を見ながら早く鼓動する胸に手を当てた。

鍵を締めて彼が指定したその場所を見るけれど、彼の姿が確認出来なくて不安が過ぎる。
ゆっくりとその曲がり角を目指して歩いて行く。どうしてこんなに緊張するのだろう。彼の姿が見えないだけで、どうしてこんなに不安なのか。

曲がり角を覗けば、少し離れた場所に安田くんが立っていて、自分でも驚く程に安堵していた。

『あは、どうしたん』

思わず駆け寄って彼の腕を掴めば、笑って私の頭を撫でる。妙に恥ずかしさが込み上げて掴んだ腕から手を離すと、行こ、と彼が言って歩き出した。
黙ってその後ろを歩きながら、ジーパンのポケットに突っ込まれたその手をぼんやり眺める。
暫くすると、振り返りもせずに後ろに向かって彼が手を伸ばした。その差し出された手を見つめ躊躇う。けれど、ゆっくりと手を伸ばしその手を取った。すると力を込めて手を握られ、ふたり会話もなく俯いてただ掌で体温を感じていた。



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