euphoria


8th Night.


久し振りに飲み過ぎたかもしれない。
カーテンを全開にしたまま寝てしまったから、顔に直接当たった朝日のせいで軽い眩暈に襲われた。顔に乗せた腕でその陽射しを遮って、もう一度目を瞑り昨夜のことを思い出していた。


#name1#との通話を終えて大倉が待つ席へ戻ると、尻ポケットに入れた携帯が震えた。継続的に振動しているから着信だろう。
携帯を取り出してディスプレイを確認すれば、マネージャーからの電話だったから通話ボタンを押した。

もしもし、と言えば、俺よりだいぶ年下のマネージャーが、何だか言いにくそうに、あーとかうーとか唸っているからゴクリと唾を飲んだ。

『...安田さん、今って...』
『大倉と居る...』
『あ、そうですか...実は、』

耳に当てた携帯が、手の中からすり抜けたから驚いて大倉を見た。

『もしもし大倉ですけどー』

俺の代わりに淡々と話し始めた大倉を見ながら、ソワソワした心を落ち着かせるようにビールを煽ってナッツをつまむ。

『何ぃ?ヤスのこと疑ってるん?』

俺に目も合わせずにグラスに付いた水滴を指でなぞって笑う大倉から目を逸らした。

...あの子とは何でもない。疚しいことなんてない。不意打ちでされたキスだって、どうってことはない。彼女には別れを告げたのだから。
けれど、疚しいのは#name1#の方だ。共通の友達でありながら大倉に#name1#とのことを黙っているのだから。

『ヤスは大丈夫やってぇ』

俯いていたら突き返された携帯を受け取って耳に当てる。何故か謝罪の言葉を口にしたマネージャーに、何だか申し訳ないような複雑な気持ちになってしまった。

電話を切ってテーブルに置くと、大倉がこっちを見ていたから笑って見せた。

『...ほんまに監視されてんねや、』
『電話だけやからまだええんちゃう?つけられたりしたら面倒いで』
『...そやな』

グラスの中のビールを飲み干して新しい酒を注文すると、大倉がまだ俺をじっと見ていた。いつものような雰囲気でないのは、俺の気持ちの問題だろうか。...違う。大倉にもいつものような笑顔はない。

『すぐ帰る言うてたやん』
『...やっぱええわ』
『................。』
『一個、言うとく』
『...なん』
『...ほんまにあの子はちゃうねん』

俺の言葉を受けて、ビールに向けられていた大倉の視線が俺に戻って来た。目が合ったままの暫しの沈黙の後、大倉が『わかった!』と雰囲気を変えるように明るい声色で言った。
だから、出かかった『ごめん』を飲み込んで『ありがとう』と口にした。



枕元にあった携帯を手にして、期待していたメッセージがないことに小さく溜息をついて体を起こす。まだ起きるには早い時間だけれど、考えたいことが沢山あるんだ。

顔を洗ってソファーに座り、ただ只管ぼーっと天井を見つめた。それに飽きればアコギを手に取り、ぼんやりと適当なメロディーを奏でる。頭の中はこんがらがるばかり。
いくら真剣に考えたところで、正解なんてわからない。全ては、行動してみないとわからないのだから。

#name1#には何も話していない。あのモデルのことも、それが理由で監視されていることも、#name1#は何も知らない。彼女ではないのだから、報告する理由もない。もし何かあれば#name1#に迷惑が掛かることもわかっているし、この事実を知ったら#name1#は俺と距離を置くだろう。

大倉が言った通り、監視とは言っても後を追って来ているわけではない。掛かって来た電話に出てさえいれば、怪しまれることだってないはずだ。
このまま諦めて離れるわけにはいかない。距離を置いている時間なんてない。折角ここまで距離を縮めたのだから。

ギターを弾く手をピタリと止めて目を閉じた。
...今日、会いに行こう。


打ち合わせとダンスレッスンを終え、シャワーを浴びながら何だか妙にすっきりしていた。状況はさて置き、自分の気持ちに正直に向き合ったら、やっぱりこの想いを捨てるという選択肢はなかったから。

タクシーを#name1#のマンションのだいぶ手前で降りて辺りを見回した。何度か振り返りながらマンションの前まで来ると、いつものように部屋を見上げることもなくマンションの中へ入る。

エレベーターを降りて足早に#name1#の部屋に向かい、インターホンを押した。
...応答がない。もう一度インターホンを鳴らして耳を澄ましてみるけれど、部屋に#name1#がいる気配はなさそうだ。

...やっぱ、連絡して来たらよかったんかな。もう遅いけど。
いくらこの部屋の鍵を持っていても恋人ではないのだから、#name1#のいない部屋に勝手に上がり込むのを躊躇って、玄関のドアの前にしゃがみ込み膝に顔を埋めた。

この時間ならもうとっくに帰っていると思っていたのに。けれど考えてみれば俺は、俺といる時の#name1#しか知らない。今この瞬間、どこで何をしているのかなんて何もわからない。友達と会っているかもしれないし会社の飲み会かもしれない。...誰と居るんだろう。
一瞬頭を過ぎった不安を振り払うように目を開ければ、隣に置いたショップバッグが目に入った。口実なんて本当は必要ないはずなのに、一体何をやってるんだろう。

静かな空間に一人でこうしていると、どうしたって落ち着かない。余計なことばかり浮かぶから、それをかき消すのに必死だ。

エレベーターの扉が開く音がして顔を上げれば、#name1#が立ち止まってこっちを見ていた。

『おかえり』

その姿を見て安堵していた。けれど声を掛けたら#name1#が目を逸らしたから、一瞬にして胸がざわつく。

「...ただいま」

部屋の前まで歩いて来た#name1#が、立ち上がった俺と目も合わせずに鍵を差し込みながら言った。

「...どうしたの?」

顔を背けるような仕草をするからその姿を見つめていると、ちらりと俺を見てまた目を逸らした。
...目が赤かった。少しだけ、腫れぼったかった。...まるで、泣いていたみたいに。

「...鍵、あるんだから、入ってればよかったのに...!」

何だか声が上擦っている気がするのは、不自然に笑っている気がするのは、俺の気のせいだったらいい。
帰る前に何があったのかなんて、知りたくない。...けれど、知りたい気もする。

当たり前のように俺を部屋に迎え入れる#name1#は、ここに帰ってくる前に誰とどこにいたんだろう。嫌な予感は、当たっていたんだろうか。

#name1#が開いたドアを支えて先に入るよう促せば、小さな声でありがとう、と言って#name1#が玄関に入った。中に入って後ろで扉が閉まると、スリッパを履いた#name1#に言った。

『...締める専用みたいなとこあるから、勝手に上がるのも思て』
「...そっか、ごめんね、残業で...」

残業、か。
...なんで#name1#を疑わなければならないんだろう。そんな権利、俺には無いはずなのに。

『うん。連絡してへんかったし』

笑って見せるけれど、目を合わせることが出来ないのは俺の方だ。手に持ったショップバッグの紐を握り締めて言葉を躊躇っていた。

...今、俺がここに居てもええのかな。#name1#は、ほんまは一人になりたかったんちゃうかな。ほんまに一緒に居りたいのは、...俺、ちゃうよな。
けど、終わらせるわけにはいかへんねん。...どうしても。

『...これ、置いといてくれへん?』

俺が差し出したショップバックを#name1#が受け取った。袋を見つめてから俺へと移された目が、何か言いたそうな雰囲気に見えて息を呑む。

「...上がらないの...?」

その言葉に、時が止まったように言葉を失った。すると#name1#が様子を伺うように俺を見ているから、気が抜けてふっと笑みが溢れた。

『...ええの?』
「...うん、」
『...なら、お邪魔しますー』

ドアの鍵を締めて、先に部屋に入った#name1#に続いて部屋へ向う。

そうだ。どんな役割だっていいじゃないか。#name1#が俺を必要としてくれるなら、それが、誰かの代わりに寂しさを紛らわすためであったとしても、選ばれたのが俺なんだから。思えば、ソフレを持ち掛けた時から、わかっていたことじゃないか。

俺が渡したショップバックをソファーに置く#name1#の背中を見て、後ろから抱き締めたい衝動に駆られた。するとすぐに#name1#が振り返ったから笑顔を向けた。

「それ...」
『あ、うん。いつもさ、寝るとき服そのままやったからさ。スウェット...今日、近くでレッスンやったし、これ使ってへんし、寄って置いてこう思て』
「...そう、なんだ...」
『置いといてもいいですか』
「...うん」

うん、というたった一言で安堵や歓喜が溢れて思わず溜息をついた。
...のも束の間、#name1#が不自然に俺に背を向けたから胸が騒ぐ。

『...風呂、はよ入ったら?』
「うん、」
『俺レッスンの後シャワー浴びて来たし』

伺うように後ろから声を掛けるけれど、背を向けたまま俯いている。ドクリと心臓が脈打って、思わずその背中から目を逸らした。けれど、すぐに笑顔を作ってなるべく明るく聞こえる声色で#name1#に言った。

『はよ。行っておいで』

ゆっくりと近付いて後ろから頭をポンポンと撫でると、#name1#がますます俯いた。そのまま一度頷いて、俯いたまま振り返って目も合わせず俺の横を通り過ぎた#name1#の目には、涙が溜まっていた。

...支えるって決めたやん。都合のええように使てくれたらええねん。一緒に居れるなら、それでいい。


#name1#がシャワーに行っているうちに、持って来たスウェットに着替えてベッドに転がった。
すると手にしていた携帯が震えたから、すぐに通話ボタンを押した。

『安田さん!明日のスケジュールなんですけど、』

今まではなかったスケジュール確認の電話は、不自然過ぎて逆に笑える。

『...すんません。大丈夫やから』

俺の言葉の意味を理解したのか、それとも考えているのか、マネージャーが一瞬無言になったから『お疲れ』と言った。すんなりと『お疲れ様でした...』と言った彼に、少し罪悪感は感じるけれど、それでも#name1#と過ごす時間は譲れないんだ。

すぐにリビングの扉が開く音がしたからドキリとした。電話を切った後でよかったと安堵せずにはいられない。
平静を装ってベッドの上で俯せになり携帯を開いたところで、後ろから声がした。

「...まだ起きてたんだ...?」
『あ、おかえりー』

起き上がって笑顔を向けるとやっと視線が絡んだ。ベッドを降りて壁側へ促すと、ありがとう、と言って#name1#がベッドに入る。隣に足を入れながらベッドに座り#name1#を振り返って見下ろせば、また顔を逸らされた。
そっと手を伸ばして#name1#の頭に触れ、ポンポンと撫でた。一瞬だけちらりと俺を見た#name1#の目が潤んでいたから、思わず苦笑いしてわしゃわしゃと髪を撫でてやる。
顔を逸らすのだから見られたくはないのだろうと、手を伸ばしてリモコンで電気を消した。

...何があったんやろ。聞いてもうたら辛くなるのは知ってる。誰を想って泣くねん。知りたくないけど知りたい。聞きたい、...けど、聞いたらあかんよな。

隣に横になると、暗くなった部屋には#name1#が抑えるように吐く震える吐息だけが耳を掠める。

ソフレとして、俺がしてやれることってなんやねん。

もどかしい気持ちが胸を締め付けて、耐え切れず#name1#に手を伸ばした。肩を掴んで引き寄せると、くるりと体の向きを変えて向き合う。あまりにも不安そうに俺を見るから、安心させるように笑顔を向け頭を抱えるように抱き締めた。

『こういう時に利用するんちゃう?ソフレってさぁ』

...ソフレでいい。手なんか出さへんよ。ほんまは苛立ちに任せて抱けるんちゃうかいうくらいモヤモヤしてんねんけど。

わしゃわしゃと頭を撫でれば、#name1#が小さく鼻を啜った。胸にじんわりと広がっていく涙の温かさが、妙に痛い。
すると#name1#が俺の胸を押した。

『...嫌?離す?』
「......鼻水、付きそ、...」
『んは、ええよ。洗っといてくれれば』

すぐにひらいた距離を埋めるように引き寄せた。あやすように背中をぽんぽんと叩いて、出来る限りの優しさで頭を撫でる。

ソフレなんて名前を付けるから苦しいのかもしれない。ただ本能だけで抱き締めていられたのなら、幸せだったのかもしれない。
...それでもソフレという関係を捨てるわけにはいかない。どんな理由であれ、必要なら抱き締める。

遠慮がちに背中に回された腕が自分の価値を証明してくれているようで、不覚にも泣いてしまいそうだった。その涙が零れてしまわないように耐えるため、より力を込めて愛しいその体を抱き締めた、第八夜。




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