9th Night.
思いの外すんなりと眠りに落ちていた。夜中に目が覚めたら章大の腕の中で、密着した体から心地良い体温が伝わる。
眠気と涙のせいで瞼が重い。目を閉じて章大の胸に少し擦り寄ってみれば、小さく身動ぎした章大がより強く私を抱き締めるから胸がきゅっと締め付けられる。
こうしていると全て忘れてしまいそうになる。心の中の靄も黒い感情も、全てなかったみたいに。
朝が来てもこのまま穏やかな感情が続いて欲しいと願わずにはいられない。
パチリと目を開けると、部屋が少し明るい。けれど、頭に掛かる温かい寝息のせいで動くことが出来ない。私の頭に、章大の顔がくっついているみたいだ。
ただ、夜に目覚めた時より少しクリアな頭が、余計なことまで私に考えさせる。
好きでもない女を一晩抱き締めて寝るなんてどんな気持ちだろう。
けれど、忠義にソフレの話を聞いたとき『抱き締めて寝ることもある』と言っていたから、ソフレという関係ではそれが普通なんだろうか。
アラームが鳴ったから、章大の腕の中からベッドの上にある携帯に慌てて手を伸ばした。章大がくっついているからゆっくりと頭をずらして上を向くと、ゆっくりと目を開けた章大と思いの外顔が近くてドキリとする。すると、章大がぼんやりと私を見つめているから思わず動きを止めた。章大の顔が至近距離まで近付いてきて、はっとして上の携帯に手を伸ばし掴む。章大をちらりと見れば、その目は閉じられていた。
...今、キス、しようとしなかった...?
アラームを止めてもう一度ちらりと章大を見るけれど、相変わらず目は閉じられている。
『...おはよぉ』
瞼は閉じたままぼそりと言われて、少し緊張してしまった。
「...おはよ、」
『めっちゃ眠たい...』
「...うん、...寝てていいよ」
『...ん、』
起き上がって布団を抜け出すと、ベッドを降りる前に腕を掴まれたからドキリとした。振り返ると口元に笑みを浮かべた章大が私を見ている。
『...大丈夫?』
「...え?」
聞き返した私にふっと笑って、章大の手が離れた。なんでもない、と布団に顔を埋めた章大を見つめて、昨夜のことを思い出していた。
...心配してくれたんだろうか。何だか格好悪いところを見せてしまったこと後悔しながら通勤の準備を始めた。
支度を終えて寝室を覗く。枕に顔を埋めて眠る章大を眺めて玄関へ向かった。
この部屋を出てしまえば章大は私じゃない誰かと居るんだろうか。私が知っているのはこの部屋に居る時の章大だけで、私にするように、寧ろ私にするよりももっと他の誰かに触れているんだろうか。
考えてしまえばキリがない。部屋を出たらマイナスなことしか頭にないから、振り払うように仕事に無理矢理頭切り替えた。
『遅かったねー』
「...ごめん、残業で」
今夜みんなで集まらないかと、休憩中に友人から連絡が入った。無理矢理切り離していた章大がいとも簡単に頭の中に戻って来て戸惑った。けれど、会いたいのは事実だからそれを承諾した。
遅れて店に入れば、先に来ていた章大と目が合い笑顔が向けられた。
いつも遅れてくるのに珍しい。忠義も章大も個室の奥に座っているから、きっと一番に着いたに違いない。
ドリンクを注文して、大輔を中心にしていたらしい会話に、端の席に座って耳を傾ける。すると、この前私に語っていた恋愛話の続きのような会話が聞こえてきて、少し身構えた。相手のことまでは話していないけれど、好きな人がいると大輔に言ってしまっていたから。
『この前言ってたソフレってやつも結局そうでしょ』
突然放り込まれた話題に、どくりと心臓が跳ねる。
『あんなもん、満たされてない奴がやることだよ』
章大の顔が見れない。今章大はどんな顔でこの会話を聞いているんだろうか。
『自分の恋愛が上手く行ってない奴が、本命じゃない相手に逃げてんだよ』
『あー、だから手ぇ出さへんねや』
納得したような忠義の声に、顔が上げられなかった。
タイミングがいいのか悪いのか、運ばれてきたドリンクを店員から受け取るために振り返る。
『事情は人それぞれなんちゃう?』
章大の言葉のせいで鼓動が急激に早くなる。ドリンクをテーブルに置きながらちらりと章大を見たけれど、その目は私に合わされることはなかった。
『どんな事情にしたって俺はわかんねぇなぁ』
逃げ出してしまいたかった。他にどんな会話をしたかなんて覚えていない。
ただ只管、章大と目を合わせないように気を張って、早く帰ることばかり考えていた。
章大にどんな事情があるかなんて知る由もない。結局私達はそれだけの関係であって、ソフレになった以上これからもそうでなければいけない。
「ごめん、明日予定あるから、今日は先帰るね」
ずっと考えていたセリフを、店から出る前に口にした。みんなと挨拶を交わしながら最後にちらりと章大を見れば、グラスの中の氷を揺らしながら私を見ていた。もう一度みんなに手を振って店を出る。
妙にドキドキしていた。追い掛けてくるわけないなんて思いながらも、妙にアルコールが回ってふわふわする足を動かして足早に大通りを目指す。
胸が熱くて苦しい。...涙、出そう。
堪えていた涙が目に溜まったままタクシーに向かって手を挙げた。目の前でタクシーが停まると、腕を引かれて驚いて振り返った。
『送る』
すぐに手が離れ、開いたドアから先にタクシーに乗り込んだ章大を呆然と見つめる。はよ、と急かされてごくりと唾を飲んで乗り込めば、章大が私の家の住所を運転手に告げる。
『いつもより酔うてるように見えたから』
「......そう、かな、」
酔っているせいでいつもよりもスムーズに頭が働いてくれない。他に言葉が見つからなくて、沈黙が続く。
章大もさっきの会話を多少なりとも気にしているだろうか。気まずいと感じているのは、私だけなんだろうか。
『...あ、すんません。やっぱり行き先変えてもらっていいですか?』
運転手に伝えられたその言葉に、思わず章大を見た。私の視線に気付いた章大と目が合って、章大が微笑む。
『ごめん、細かいのないから、俺んちな』
「...あ、私、…」
バッグを開いた手を掴まれて章大を見れば、笑みを浮かべたまま首を横に振った。目を逸らして窓の外に視線を移した章大に、何も言えなかった。
目的地が近付くけれど、動揺した頭には何ひとつ言葉が浮かんでこなかった。
『その辺で停めてくださーい』
車が停って戸惑いながらタクシーを降りる。降りてきた章大が私の前を素通りして目の前の大きなマンションへ向かうから、戸惑ったまま立ち尽くした。
『#name1#!何してるん』
振り返った章大が笑った。そのまま前を向いてまた足を進めるから、思わず辺りを見回してからゆっくりと章大の後を着いていく。
私のマンションより遥かに高級でセキュリティも厳重なその空間に息を呑む。
エレベーターに乗り込んだ章大に続いて中に入ると、静かなその空間に妙な緊張感が広がった。
『...明日、予定あるんやったっけ』
「...あ、...え、...うん、」
『朝早いん?今日泊まる?それとも、帰る?』
エレベーターが止まり促されて先に降りると、章大が奥の部屋へと向かうから後ろをついて行く。
『どうぞ』
「......お邪魔します、」
玄関に足を踏み入れると先に上がった章大が振り返って私に笑顔を向けた。
『じゃんけん、する?』
「............、」
この前の夜を思い出して章大をちらりと見れば、ふふ、と笑って部屋の中に入って行った章大に続いた。
『迷うなら泊まったらええよ。何時でも送るから』
「...いいよ、そんなの...」
『とりあえず、なんか着るもの出しとくな。風呂入ったら?』
「......うん、」
広い部屋を見回せば、何だか心が擽ったくなるほど章大らしいもので溢れている。汚いからあんまり見んといて、と言って笑った章大から目を逸らした。
ほら、やっぱり章大はいつも普通。私ばっかり緊張して、ときめいてドキドキして、弄ばれているような気持ちになってしまう。
シャワーを浴びて章大が出してくれた可愛らしいスウェットを着てリビングへ戻れば、入れ違いで章大がシャワーへ向かった。
そこら辺にある物を自由に使っていいと言われたけれど、いちいち緊張してしまうから困る。
大きめのソファーに一人ポツンと端に座りまたキョロキョロと見回せば、いつもの章大と同じ香りに胸が高鳴る。
章大はどうして私を家に入れてくれたんだろう。
ドキドキしすぎて忘れていたさっきの大輔の言葉を思い出していた。...あながち間違っていないのかもしれない。私には何も言わないけれど、実際章大にそんな噂はあるわけだし、抱き締められたって...何もないわけだし。
このスウェットは、多分女物で。章大が着ていてもおかしくはないデザインだけれど、これがもし...。
思いの外早く章大が出てきたからまた緊張してしまう。ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から出して口を付けながらソファーの方へ歩いて来た章大が、 あまりにもナチュラルにそれを私に差し出すから一瞬躊躇ってから手を伸ばした。間接キスをこんなに意識したのは学生時代以来かもしれない。
『...寝る?』
「...あ、どっちでも、」
『...ほんなら寝るかぁ』
寝室らしき部屋へ向かった章大に着いて行くと、大きなベッドが目に入った。章大が布団を捲くって待っているからベッドに乗り上げると、横になった私に章大が布団を掛けながら微笑んで私を見つめた。
『元気ないな、最近。...なんかあった?』
思わず目を逸らしてしまった。
章大が隣で布団に入って、ふっと笑う。
『...あ、そうかぁ。干渉したらあかんねや』
...そうじゃないよ。私のことを気にしてくれて嬉しくないわけがない。けど、ただ単純に言えないだけ。章大のことを話すなんて出来ないんだから。
それでも私は章大を必要としていて、でもそれを伝えるのは怖い。この気持ちが恋だと気付かれるのが怖い。
...でも、一緒に居たいの。
布団の中で触れた指を、思い切って絡ませた。私にはこうするしかない。言葉で伝えられないのだから、こうやって伝えるしか方法はない。 緊張で昂った感情のせいでまた涙腺が緩むから、章大から更に顔を背けた。
絡んだ指が章大によって握られたから胸が痛い。すると、章大が動いて肩を引き寄せ抱き締められた。
...なんでこんなことするの。こんなことするから苦しくなるんじゃない。苦しいけど、幸せ。この関係を選んだことを後悔したくない。してしまいそうだけど、絶対にしたくない。
『...泣いてるん?』
「......泣いてない、」
『...ならよかった』
腕の中で拭った涙に気付かれることは許されない。この涙の意味を知られるわけにはいかない。
これ以上胸が痛まないように、章大の背中に腕を回すのは耐えた。包まれたまま章大の胸に触れた額から少しだけ早い鼓動を感じて、この心を私にくださいと繰り返し願った、第九夜。
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