8th Night.
目を開けると、頭が重い。すっきりしない目覚めだ。睡眠時間が短いのだから仕方ない。
まだ時間があるからもう一度目を閉じる。けれどこれだけ部屋が明るいと、さすがにもう寝られる気がしない。
仰向けになって携帯を見つめる。いつも開く時には期待してしまう。けれど画面にはSNSの通知だけで、私が望むそれは画面には見当たらなかった。
開いたSNSのページを何気なくスクロールして見流す。すると、見覚えのあるキャップが目に飛び込んできて思わずぴたりと指を止めた。
そしてすぐに画面を消して携帯を伏せる。
掛け布団を抱き締めて横向きに転がり顔を埋めた。目を閉じてもさっき見たそれが目の奥に浮かぶ。だから目を開けて視線の先の壁をただ見つめた。
噂に惑わされないために、あの日から見ないようにしていたのに。ずっと避けてきたのに。
章大が昨夜、前から噂になっていたあのモデルと一緒に居たという目撃情報と、見覚えのあるキャップを被った見覚えのある後姿の写真は、私に多大なダメージを与えた。
...嘘をつくのは当たり前だ。そういう人と会うのなら、私になんか言えるはずがない。私はただのソフレだと理解してる。優先されるべきなのは私じゃないことも理解してる。
...全部わかってるのに。
仕事が手に付かない。集中力がない。こんな簡単な仕事が終わらないなんて、入社一年目以来だ。
...けど、残業も悪くないかもしれない。家に一人でいれば考えてしまうし、章大のいない空間に切なくなるだけなのだから。
電車はまだあるけれど、人混みに入る気力がないからタクシーを選んだ。
流れる景色を見ながら、始まりの日のことを思い出していた。あの日も同じような噂を耳にしてこんな気持ちになっていた。章大はそれが自分のことだなんて夢にも思わないんだろうけれど。
最近は本当に涙腺が緩くて困る。どこでも関係なく目の奥が熱くなるから。タクシーの中でも章大の前でも関係ない。マイナス思考な自分が顔を出すとすぐに涙腺が刺激されてしまう。
タクシーにしておいてよかった。電車でこんなところを誰かに見られなくてよかった。
次に会うときには笑っていられるだろうか。隣に章大が居たら、変わらず幸せだと思えるだろうか。
...もし、そうでなくても、離れることなんか考えたくない。
タクシーから降りてバッグから鍵を取り出しながらエレベーターに乗り込む。正面の鏡に映った自分の目が赤くて、思わずすぐに目を逸らした。可哀想な自分は、見たくない。
エレベーターを降りて、思わず足を止めた。私の部屋の前でしゃがみ込んでいるあの人は、紛れもなく章大だから。
ついさっき見た自分の顔を思い浮かべて足を進めるのを躊躇う。後ろに一歩下がったところで、顔を上げた章大と目が合った。
『おかえり』
少し離れた部屋の前から控えめな声で言った章大から目を逸らす。
「...ただいま」
さすがにもう引き返すことは出来ないから、なるべく顔を見られないようにするしか方法はない。
「...どうしたの?」
部屋の前まで歩いて鍵を差し込みながらちらりと章大を見ると、さっきまでの笑みは消えて黙ったまま私の横顔を見ていた。
「...鍵、あるんだから、入ってればよかったのに...!」
見られていることに動揺して慌てて出て来たその言葉で、章大がやっと私から目を逸らした。
ドアを引いてもう一度章大を見れば、そのドアを章大が押さえて先に入るよう促される。玄関に入って扉が閉まると、スリッパを履いた私に章大が言った。
『...締める専用みたいなとこあるから、勝手に上がるのも思て』
「...そっか、ごめんね、残業で...」
『うん。連絡してへんかったし』
一向に上がろうとしない章大に戸惑う。靴を履いたまま突っ立っているから、すぐにでも帰ろうとしているように見える。
...何しに来たの。何か言いに来たの?
噂のことが頭を掠めてドキリとする。
...まさか、今日で終わり、なんてこと...。
上がって、と言ったらそうする?それとも、終わりを告げられてしまうんだろうか。怖くてなかなか言い出せない。
章大が一度俯いてから顔が上がって私を見る。緊張して足が震えてしまいそう。
『...これ、置いといてくれへん?』
差し出されたショップバックを受け取る。中身はなんなんだろう。
...待って、まず、引き留めないと。帰ると言われる前に、言うなら今しかない気がする。
「...上がらないの...?」
断られることに臆病になってドキドキしていた。私を見つめたまま沈黙していた章大がふっと笑って私から目を逸らす。
『...ええの?』
すぐに返って来た視線に見つめられて聞かれた言葉は、一体どんな意味なんだろう。
「...うん、」
『...なら、お邪魔しますー』
後ろのドアの鍵を締めた章大を見て安堵の息をついた。先に部屋に入って電気を点けると、ショップバックをソファーに置いた。
「それ...」
『あ、うん。いつもさ、寝るとき服そのままやったからさ。スウェット...今日、近くでレッスンやったし、これ使ってへんし、寄って置いてこう思て』
「...そう、なんだ...」
『置いといてもいいですか』
「...うん」
胸がトクンと脈打つのを感じた。
安堵だけではない。まだこの関係が続けられる。まだ、私を必要としてくれていることが嬉しくてたまらなかった。
視界がぼやけたから章大に背を向けた。
『風呂、はよ入ったら?』
「うん、」
『俺レッスンの後シャワー浴びて来たし』
着替えを取りに行かなきゃいけないのに、章大が居る方の寝室へ今向かうのはちょっと気が引ける。この顔を見られたくないから。
『はよ。行っておいで』
いつの間にそこに居たんだろう。後ろから頭をポンと撫でる手に、ますます目が潤んだ。だから一度頷いて、俯いたまま章大の横を通り過ぎ寝室へ入った。
どうして章大は、私にこんなに優しくするんだろう。章大は、何を考えてるんだろう。それでもやっぱりこの優しさが嬉しいし、幸せだな、なんて思ってしまう。だから、章大は狡い。
シャワーを浴びながら、また少し泣いた。もう、なんの涙なのかは自分でもわからなかった。
シャワーから出ると章大の姿が見えなかった。奥の寝室に電気が点いているから、きっとベッドにいるんだろう。
寝室を静かに覗けば、章大は持って来たであろうスウェットにTシャツで、俯せになって携帯を弄っている。
「...まだ起きてたんだ...?」
『あ、おかえりー』
章大が起き上がって壁側へ促すから、ありがとう、と言ってベッドに入る。
私が寝転ぶと、ベッドの上に座ったまま私を見下ろすから居心地が悪くて顔を逸らした。
何も言わずに私の髪に触れた手にドキリとした。その手がまたポンポンと私の頭を撫でるからちらりと章大を見れば、困ったような顔で笑っていたからまた目を逸らした。
なんでそんな顔するの。私の涙の意味なんて知らないはずなのに。
あー、もう。今日は本当にダメ。すぐに泣いてしまいそう。
頭から手が離れて電気が消えた。
隣に横になった章大の体が、私の方を向いているからドキドキしてしまう。すると、急に章大の手が私の肩を掴んで引き寄せた。くるりと体の向きを変えられて向き合う形になったから思わず章大を見れば、笑顔を向けられ頭を抱えるように抱き締められる。
『こういう時に利用するんちゃう?ソフレってさぁ』
頭のすぐ上で、ふふ、と笑う声が聞こえてわしゃわしゃと頭を撫でる。
泣いていたことに気付かれていたのはわかってる。でも、章大はその理由をなんだと思っているんだろう。...その優しさには、どんな意味があるの。優しいけれど、ソフレを強調したその言葉に、期待してはいけないのだと思った。...それでも、ここまで優しくするのに、本当に意味はないの...?
本格的に溢れ出してきた涙に戸惑って、距離をあけるように章大の胸を軽く押した。
『...嫌?離す?』
「......鼻水、付きそ、...」
『んは、ええよ。洗っといてくれれば』
すぐにひらいた距離を埋めるように引き寄せられて胸に顔が埋まる。息苦しさと胸の苦しさのせいで嗚咽が漏れてしまいそう。
頭を撫でる手も、頭から離れて背中を一定のリズムで叩くもう片方の手も、触れている胸の体温も、私を勘違いさせるほどに優しくて狡い。
章大は、他の女の人にもこの優しさを与えているんだろうか。今、何を思って私を抱き締めているんだろう。
ソフレなんて名前を付けるから苦しいのかもしれない。ただ抱き締められていたのなら、幸せだったのかもしれない。
...それでも無くしたくない。知ってしまった優しさを、手放すことはしたくない。知らなければよかったなんて思いたくない。
痛い程に苦しくて悔しくて、勢いで背中に回した腕で章大を抱き締めた、第八夜。
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