euphoria


凍えた瞳が見た幻


隣の部屋で聞こえる銃声に足が震え、ベッドから抜け出し、半裸のまま部屋の端で座り込んだ。口元を押さえた手も、吐息も体も震えていた。

三日前に私を買い、何度も何度もめちゃくちゃに抱いた見るからにガラの悪いあの気持ちの悪いオジサン。あの人も、銃声が聞こえてさっきこの部屋を出て行ったから、きっともう殺されたんだろう。

...あーあ、先にお金貰っておけばよかった。

そんなことをぼんやりと考えながら、心のどこかで自分も生きて帰れることはないのだろうと予感していた。
そもそも、帰る場所も、行きたい場所もないのだけれど。

銃声が止んだ。
...次は私の番かもしれない。
震える息を吐き出すと、少しだけ開いた部屋のドアからこちらを見つめる視線に気付き、心臓が飛び跳ねた。
黒のスーツの小柄な男。白い縁の眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐにこちらを見ながら、ゆっくりと近付いてくる。
体が動かなかった。

「...殺してください」

私の前で立ち止まり、見下すような目で私を見る男に、消えそうな声で言った。

そうするしかなかった。私に行くところなんかない。お金なんかなくて、お金をくれると言うから我慢してあの人に抱かれたと言うのに、散々私を汚して死ぬなんて。もうどうでも良くなった。だって、私が死んだって悲しむ人なんか居ないのだから。

『...ペット?』

その言葉に嫌悪を抱いた。けれど間違いではない。でも気分は最高に悪かった。

「殺して、」

覚悟したはずなのに声が震えて掠れる。唇を噛んでも震えてしまう。
黙って私を見下ろす冷たい目が怖くて、視線を逸らす。

『おい、行くで』

彼の仲間らしき人達の声が部屋の外から聞こえた。
すると彼は無言で私に背を向け歩き出した。

「...待って、」

男はドアの前で振り返った。震える足で立ち上がり、フラフラと歩いて男のスーツを掴む。
もうこの異様な世界で生きて行ける気はしなかった。だから終わらせて欲しかった。怖いけれど、自分で命を絶つ勇気はないから。

「...殺してってば、...」

絞り出すように声を出すと、涙が零れた。
死体ばかりが転がっているであろうこの建物に取り残されて、この汚れた体で、この先どこに行くことも出来ない、未来が見えない絶望。この人であれば、今ここできっとすんなり殺してくれるはずだから。

暫く黙ったまま私を見つめていた男に、腕を掴んで引かれベッドに突き飛ばされた。男が私の体を跨いで首に手を掛ける、徐々にその手に力が込められ息が詰まる。彼の手を掴んで目を閉じ、涙を流しその時を待った。

ふと唇に熱が落ち、同時に首から手が離され思わず大きく息を吸い込む。
至近距離にある眼鏡を外した男の顔。そのガラス玉のように光る目が直接私を見つめ、また男の唇が私の口を塞いだ。まだ息の荒い唇を啄み、深く口付けて舌を絡ませる。
あのオジサンとのキスなんか消してくれるような、まるで、愛されていると錯覚してしまいそうな、やたらと甘ったるいキスだった。

どうして、...なんて思う間もなく、唇を触れさせたまま男が言った。

『違う世界で生きて行き』

低く囁いた彼は、私の頬の涙の痕を親指で暈した。まるで私を通して愛する誰かを見ているみたい。
その手を掴むと、目尻からまた雫が流れ落ち、彼の視線がそれを見送る。

「...どうしたら殺してくれるの」

私の言葉に一瞬眉を顰め、眼鏡をかけ直すと、すぐに口の端を上げて蔑むような笑い方をして肩を竦めた。

『俺を怒らせたりせぇへん限り、殺さへんよ』

私の手を解いて起き上がりながら彼が言った。

『お前はまだ生きれる。けど、この世界にはおったらあかん』

私をベッドに残し背を向けた彼の後姿を見つめながら体を起こす。
...昨日の晩に見たから知ってる。ベッドサイドのあの引き出しに隠れている、小さなナイフ。
未だ震えがおさまらない手で体を支え起こし、引き出しの奥のナイフを取り出した。震える足で彼の背中を追い掛け、ナイフを振り上げた。

あの感触は死ぬまで忘れられない。

私が切り付けた肩を押さえて振り返った彼は、一瞬顔を歪め、私に鋭い視線を寄越した。
こんなことをしたのだから、早く殺してよ。お願いだから、もう、すぐにでも。

『...手ぇ掛かる女やなぁ』

苛立ったような声で低く小さく呟いた彼は、赤く染ったその手で私の首を掴んだ。次の瞬間鼻と口を何かで覆われ、意識が遠のいた。


私は生かされた。
この人によって、絶望の世界に生かされてしまった。



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